「冷血の鏡子さん」

「あれ。どこいったっけ」
 私は夫からもらったピアスを探す。さりげなく揺れるエメラルドがついた小さな小さなピアスだ。大好きな夫からもらったピアス。とっておきのとき――例えば、夫とのデートの時とか――に付けようと思っていたピアス。
 今日がそのデート。
 私は胸を躍らせながら、エメラルドにあう若草色のドレスを着て、普段しない化粧をし、さあ、ピアスを付けようとしたときだった。
 どこにもないのだ。ブランドものとはいえ、ハイブランドではなかったはずだから、盗む人などいないだろうに……。それに部屋はきれい好きがゆえ、整頓されているのだ。誰かが入った形跡はない。
 いつも見てはニヤニヤしていたので、そのとき、いつもと違う場所に置いたのだろう。
 ああ、私のアホンダラ。
 ため息をつき、がっくり肩を落としながら、仕事帰りの夫との待ち合わせの最寄り駅へ向かった。
 デート中はずっと沈んでいた。夫は何かあったの、とずっと聞いてきたが、せっかくくれたピアスをなくしたとは言えるはずもなく……。楽しみだったデートはずっと地獄だった。夜風が気持ちが良いはずなのに、心は土砂降りの雨だった。

 その翌朝、夫が「何かあったら、ちゃんと話してね」と心配そうに声をかけ、出勤した。
「はあ……私のドジ。今日一日探しましょ。でないと、あの人に顔向けできないわ」
 私はエプロンを着けると、私たちが住む社宅の部屋の窓をすべて開けた。
 晴れ晴れとしたお日様が憎らしく感じた。
 午前中、みっちり掃除をした。リビングも寝室もお風呂場もトイレも、そのほか、キレイになった。コンロの五徳を新品同様にできたのはちょっと誰かに自慢したいぐらいだ。
 しかし、根本的な問題は残ったまま。
 エメラルドのピアスが見つからない。
「もう諦めるしかないのかな……」
 私は落ち込んでいると、チャイムが鳴った。
 荷物かしら?
 私はTVドアフォンを見ず、慌てて玄関へ向かう。
「はあい。御機嫌如何?」
 玄関先にいたのは、この社宅で一番偉い営業部長――の妻だった。いわゆるボスママ。上品そうなメイクに高級な仕立てのツーピース。手にはハイブランドの革の鞄が握られており、靴もおそらくそうだろう。総額どれぐらいかけているのだろうか。全身のコーディネートの金額の方が気になって、仕方がない。彼女の周りには腰巾着という言葉がふさわしい営業課長クラスの夫を持つ妻たちが三人並んでいた。みんなハイブランドに身を固めている。
「は……はあ。今、ちょうど、掃除中でして……」
 私の夫は平社員だ。そして、営業ではなく、経理をやっている。
「オレの仕事は営業と違って、お金を産まないから、慎ましやかに生きたいんだよな」
 夫の口癖が脳裏に駆け巡る。大好きな夫の言葉だ。謙虚さを忘れないこの言葉がとても好きだ。私自身も派手な生活はそんなに好きではない。だから、惚れた腫れたで結婚した。
「あらら。掃除も自分でしないといけないなんて、平社員は大変ねえ」
 ボスママは私を鼻で笑う。ピリリと脳内に怒りが走る。ボスママは家政婦を雇っているのはみんなが知っている。彼女は家事を一切しないのは周知の事実だ。
「大変ですけど、掃除は好きなので……」
 私は下手に出る。家事の素晴らしさを何も知らないくせに! とキレ気味になりそうなところ、ていねいに話す。
「掃除しか趣味がないのですね! あら、残念。わたしみたいにピラティスをやったらどうなの」
「はあ……」
 私の返事に、後ろに並ぶ腰巾着はクスクス笑う。
 ふと、ボスママの耳を見た。緑が揺れるピアスがある。
 私のなくしたピアスと同じデザインだ。まじまじと見たいところだが、凝視するのも気がひける。
 でも、なんか胸のざわめきが起き、
「あの……そのピアス。エメラルドですか?」
 思わず聞いてしまった。
「ええ。安物だから、普段使いにしようと思って。可愛いでしょ」
 ボスママはイヤらしく笑う。
「え……ええ。そうですね」
 私は頷くしかなかった。
 この人レベルだと、エメラルドのピアスも普段使いになるのか。
 夫が買ってくれたのは安物のブランドで間違いではなかったし、きっと大量生産されているものだろうから、それも仕方ないのだろうし、そもそも同じデザインのピアスなど、星の数ほどあるだろう。
「せいぜい、掃除、頑張ってくださいませ!」
 ボスママの高笑いと共に、玄関のドアは勢いよく閉まった。
「ま……まさかね」
 私に心にはしこりが残った。

 三時過ぎ、夕飯の買い物にスーパーに向かった。
 まだ暖かな空気で、気持ちが良い。
 牛乳を買ったため、重たいエコバッグを抱えながら、帰宅している途中、高級なチェーンコーヒー店が目にとまった。
 いつもなら、気にもとめない。でも、今日は違った。
 夫とボスママが一緒にいるのだ。
 夫は窓を背に向けているので、実際に顔は分からない。しかし、髪型から、背格好、いつも着ている背広、鞄のすべてが夫のものだ。ドッペルゲンガーでない限り、こんなにそっくりな人間はいまい。
 
 こんなに暖かいのに、心臓が冷えていくのが分かった。私はすべてが失った気がした。

「お姉さん? 今、絶望しましたか?」

 突然、後ろから澄んだ少女の声が聞こえてきた。
 振り返ると、白いブラウスにニットでできた灰色のベスト、深緑のプリーツスカートを着た少女が鋭い目つきで、こちらを見ていた。
 その大きな二重の目は、瑠璃色と言っていいほど、深い青色をしていた。黒く艶のある髪はシニヨンで結んである。
 おそらく、「美少女」という文字をそのまま絵に表したら、このような少女になるのだろう。無国籍な顔立ちだ。年はだいたい中学生か高校生ぐらいだろうか。
「お姉さん、今、絶望しているでしょう。例えば、見ちゃいけないことを見てしまったとか」
 瑠璃色の目は私を追求するかのように、鋭く刺す。
「なんで知っているの。あなたには関係ないでしょ。ガキが首を突っ込まないでくれる? 大人の話なのよ」
「どうして大人の話なんですか? 思春期をなめてもらっては困ります。男女関係ぐらい分かりますよ。夫が別の女性と一緒にいたら、妻が嫉妬するのは当然です」
「どうして、それを……?」
 私の心臓はピクリと跳ねた。
「いやあ、申し訳ないんですけど、ちょっと気になったんで、あなたの絶望を見させていただきました。僭越ながら申し上げますと、早とちりは良くないですよ」
「は?」
「ですから、早とちりは良くないって話ですよ。ちゃんと状況を把握してますか?」
 絶望を見ただの、早とちりは良くないだの、なんて意味不明で回りくどい少女!
「うるさいわ! あんたみたいなガキの世話なんかしている暇なんかないのよ!」
 私は少女に怒りをぶつけるしかなかった。
「ああ、そうですか」
 少女は長いまつげが印象的な目を伏せた。それから、
「わたくしの名前は鏡子。絶望にいる人々に希望を見せる存在です。あなたにも、いつか希望を見せて差し上げますから、覚悟をしていてくださいね」
 ぎこちなく笑う鏡子に、私は戦慄を覚えた。

 帰宅後、夫と口を一切聞きたくなくて、夫の帰りを待たずに、ベッドに横になった。涙はボロボロと溢れて、こらえるのに大変だった。

 気がついたら、寝ていたようだった。
 朝、起きると、夫は夕飯を食べ、食器を洗った形跡があった。そして私の分の朝食を作ってくれていた。とは言っても、夫は料理が下手なので、オムレツを作ろうとして失敗しただろうスクランブルエッグとプチトマトだった。
「トーストは自分で」
 夫のサラサラとしたメモ書きに、再び涙が溢れ出た。もう涙は止まらなかった。

 しばらくしてチャイムが鳴った。ティッシュで目を押さえながら、TVドアフォンを覗いた。映っているのは、ボスママだ。なんと今日は腰巾着がいない。
 涙を止めなきゃと、必死に目元を拭いた。
「はあい。調子はどう?」
 ケラケラと笑うボスママを殴りたい衝動に駆られるが、どうにか理性で押さえつける。
「あんたの旦那は最低ね。わたしをずっとナンパしているのよ。どうやら、このピアス、あなたのものだったらしいわね」
 私はショックで目の前が真っ白になった。ふらふらと尻餅をつく。
 もう立てない。
「わたし、親切でしょ。あんたの旦那は最低だって教えてあげているんだから。まだわたしに手を出す前に教えてあげたのよ。感謝しなさい」
 ボスママの声はだんだん遠くなっていく。
 
 私の脳内は真っ暗になった。

「お姉さん! お姉さん!」
 澄んだ少女の声で目が覚めた。私は自分のベッドに横になっている。
「あーよかった。心配したんですよ。救急車を呼ぶところでした」
 ベッドサイドにはしゃがみこんだ鏡子が無愛想に私を見ていた。だが、とてもこの顔は心配そうには見えない。
「私は見世物じゃないわよ。そんな怖い顔で見なくていいじゃないの?」
「わたくしはいつも真剣なんです。真剣に話していることを邪魔されたら、誰だって、怒りますよ」
 鏡子は大きく深呼吸をすると、
「すべて、お姉さんの早とちりなのです。今の絶望は早とちりから来る絶望なのです。ちゃんと真実を知れば、希望が持てるはずなのです。ね、今から見せますから……」
 鏡子はスマートフォンを取りだした。最新型のものだ。
「何をするの?」
「ん……と。念写、ですかね」
 鏡子は額に携帯電話をかざすと、
「闇の力を以て、我に真実を示さん」
 こう、謎の呪文を唱えた。と、同時に軽快な音色が二回鳴る。
 額から外したスマートフォンを軽やかに操作する鏡子は、
「あ、撮れてますね。ほら、これが証拠ですよ」
 動画を流しはじめた。

 ◆

 夕日がまぶしい高級チェーンコーヒー店が映った。
「うちに不法侵入しましたよね。罪を認めて、盗ったものを返してくれれば、通報はいたしません。自分の分の接待費が経費で落ちないからって、うちの鍵を盗んで合鍵を作るまで、こんな嫌がらせをしないでいただけますか。不満を夫婦二人揃って、私どころか私の妻まで巻き込むなんて情けないですよ。こっちはあなたが侵入した証拠を集めるのに苦労したんです。妻に見せたら、家も守れないのかと、きっと自分自身を責めると思うので」
 七三分けをきっちり決め、スーツをカッコ良く着こなす夫はキリッとした真剣な目でボスママを睨み付けていた。
 にこやかに余裕を見せるボスママは相変わらず豪華な服を着ていた。飲んでいるものも、ブレンドコーヒーの夫と違い、甘くて高級なドリンクだ。
「あらやだ。わたしたちを疑っているの。信じられない。うちの人にどう言えばいいのかしら」
「どうぞ、言ってください。あなたが付けているそのピアスは、妻にプレゼントした限定品。受注生産なんです。すべてに番号が振ってあって、ぼくはその番号を控えてあります。番号が一致していれば、妻にプレゼントしたものと分かります」
 怖い声でボスママに夫は責める。
「他の家でも盗みを働いてはいませんか? 実は相談を何件かうけているんですよ。認めなければ、すべて被害届を出すつもりです。潔白であれば、捕まるはずはないですものね」
 こう続けた夫の言葉に、
「うるさいわね! うちの旦那にあんたの横暴を言ってやるわ!」
 ボスママは勢いよく立ち上がった。食器と金属がこすれる音がし、コーヒーは床にこぼれた。

 ◆

 動画が終わった瞬間、夫を疑った自分を恥じた。
「私ってバカだわ……」
 涙が止まらない。
「違いますよ」
 鏡子は厳しい声で否定した。
「違うって……?」
「バカはあなたではありません。向こうです。会社での地位を何でもやってもいい権利と勘違いしていることそのものがバカなことです。あなたの心をあんなウソでもてあそぶのが、その最たる例です」
 鏡子の声は突然柔らかくなった。
「真実を見たおかげで、あなたの心は楽になったと思いますが。少なくても希望は見えたと思います」
 たおやかに微笑む鏡子に、私は抱きつき、泣きじゃくった。
「でも、私はあの人を疑ったわ。最低よ」
「いいえ、お姉さん。疑うこと自体は全く悪くありません。すべてを信用する方が危険です。問題はなにを誰を信頼するかですよ」
 私は鏡子を見た。
 鏡子の大きな瑠璃色の目に吸い込まれそうになった。
「さて、この真実を持った上で、どうするかですよ。旦那さんとご相談して、あの女を警察に突き出すのも手ですが」
 私は鏡子の提案に首を横に振り、
「角は立てたくないわ。私の行動で夫が会社をクビになるのは問題だもの」
「そうですか。それがあなたの意志ならば」
 無表情に戻った鏡子はそっと立ち上がり、部屋から出ようとしたときだった。
 家の電話がけたたましく鳴った。
 私は跳ねるように起き上がり、枕元の電話の子機をとる。
「もしもし」
「もしもし。あらあら。わたしよ。おたくの旦那さん、とんでもない侮辱をわたしにしてくれたわね」
 電話の相手はボスママだった。
 私の頭から血の気が引いた。
「それでね、わたしの家に来てほしいの。ちょっとお礼がしたくてね」
 冷たいボスママの声に心臓が縮み上がる。
「わ……わかりました」
 私は電話を切ると、フラフラとベッドに倒れ込む。
「一体、どうしたんですか? そんなに青ざめて」
 鏡子は私の顔を見る。
「お願いがあるんだけど」
 今、一人きりで家を出るのは怖い。
「なんでしょうか」
 鏡子の凜々しい声に、
「お願い。一緒についてきて」
 私は鏡子の手をすがるように握った。
「それがあなたの意志ならば」
 鏡子は私の手を握り返した。

「あら。何、この子」
 鏡子をチラリ見たボスママは舌打ちをすると、
「中へ入ってちょうだい。お礼をゆっくりさせてもらうわ」
 私たちを私の住む部屋とは比較にならないぐらい広いリビングに招き入れた。
 中に入ると、なんと!
 リビングに普通はあるはずのテーブルはなく、その代わりに営業部の何人もの男性が私の夫を殴っていたのだ。夫の額やほほからは血がダラダラと流れている。
 スーツもワイシャツも血で酷い有様だ。
「あなた!」
 思わず、私は夫に駆け寄る。夫は、
「心配かけてごめんな。いつもごめんな。ピアスのことで落ち込んでたの、気がつかなくてごめんな」
 こうずっと謝っていた。
「謝らないで! 私も謝らなきゃいけないことがあるから」
 夫を抱き寄せ、私は子供のように泣く。
「さて、主役が来たわ。ここからが本番よ。さ、みんな、やりなさい」
 刃のようなキツい口調でボスママは、営業部の男性たちに指示を出した。
「やるって……。もしかしてぼくをおとりに……。こいつ……!」
 夫は震えた声で、私を守るように抱く。しかし、ボロボロの夫はすぐに引き剥がされる。
 しゃがみ込んだ恰幅の良い営業部の男性に私は乱暴に手を引っ張られた。
 南無三! そう心で唱えた瞬間だった。
「あはっ! 他者の尊厳をマウントでぶち壊しにするって、あなたって本当に最低な人間ですね」
 鏡子の方を見ると、他の営業部の男性陣は全員倒れ込んでいた。どうやら気絶しているようだ。ちょっと身体が赤く腫れている。殴ったのだろうか。
「大丈夫ですよ。全員、生きてます。乱暴にされそうになったので、乱暴に返しただけですよ。まさかわたくしまで襲われるとは思いませんでした。未成年に何をしようとしたのですか?」
 鏡子は何故か楽しそうだ。
 私の手を握った男性の頭を鏡子は蹴飛ばす。男性は吹き飛び、水屋にぶつかった。いくつか食器が落ちる。割れる音がした。
「さて、あなただけですね。どうしましょうか?」
 鏡子はボスママに迫った。
「な……暴力反対! 傷害罪で訴えるわよ!」
 震える声でボスママが私たちを指さす。
「そんなことは知ったコトじゃないです。あなた方がわたくしたちをリンチしたのは事実ですよ?」
 鋭い目つきで、ボスママを睨み付けた鏡子は、一回、指を鳴らし、
「闇の力を以て、天誅を下す! 汝、真実の様を顕せ!」
 と、大きな声で呪文を唱え、指さした。

 そのときだった。

「警察だ」
 と黒い手帳を見せる複数の男たちが入ってきた。
「う……一体、なによ……」
「おたくの部長さんが横領の疑いがありましてね。こちらに書類があるらしいと聞いたので、来たのですが……」
 血塗れのサラリーマンを抱きかかえる妻と、不思議な少女の周りに大量に倒れたサラリーマンという異様な光景に、令状を持った刑事は青ざめていた。
「その令状より、まず怪我人をどうにかしてください」
 鏡子はそっと呟くように言うと、風のように外へ出た。あまりの自然さに誰も止める者はいなかった。

 さて、まず事の顛末を話そう。
 営業部部長は経費をごまかし、横領を行っていた。
 そして、ボスママが持っているものはすべて盗品だった。
 それもすべて、部下の妻のものだったそうだ。まるでイソップ物語の「おしゃれなカラス」だ。
 まとめると、夫婦共々、盗みを働いていたのだ。
 経理部の夫は、営業部の経費の使い方に違和感を覚えたらしい。その調査の稟議書の作成をしていたとき、若い営業課に拉致され、あのような暴力をふるわされた。あげく、私は自分の心を殺されかけた。
 腰巾着の課長夫人たちは、しおしおとした表情で、夜逃げの如く引っ越しをした。どうやら、営業部全体の不正で、課長も関わっていたそうだ。つまり、課長である旦那はクビになり、家族共々、社宅にいられなくなったというわけだ。
「キミが無事でなによりだよ」
 夫のその言葉に私のすべてが救われた。私も夫を疑ったことを謝った。
 怪我も何針か縫うぐらいで済んだ。骨でも折って、動けなくなる夫の姿は見たくない。多少、キズが残っても、それは私を守ってくれた勲章だ。
 私は夫の優しさと無事を心から感謝し、喜んだ。

 しばらくはドタバタしていた。
 営業部長やその妻、そして事件に関わった人々は、すべて然るべきところへ行った。
 つまり、真実は明るみになったわけで……。
 鏡子の「希望は真実を知ること」とは言ったけど、それはこのことなのだろうか。
 私は希望を持つことができた。しかし、真実が明るみに出た今、事件の加害者は絶望しているだろう。
 夕方、買い物の帰り道、この心のしこりを感じていた。昼間より少し涼しくなってはいるものの、やはり暑い。しかし、このしこりが冷たくて、気持ちが悪かった。
「どうして落ち込んでいるのですか」
 鏡子の澄んだ声が聞こえてきた。振り返ると、満面の笑みの鏡子がいた。瑠璃色の大きな目が憎らしい。
「どうして……って。営業部のみなさんはきっと絶望したに違いないわ。希望を与えるあなたがそんなことをして良かったって思っているの?」
 私は理性的に落ち着いて聞くことができた。今まで感情的になっていた反動だろうか。
「勘違いしていますよ。わたくしは『絶望した人に希望を見せる』存在です。希望を見た人には、意志が生まれます」
「意志?」
 私は疑問しか浮かばない。
「そう、意志です。希望を見せた人間には『意志』が生まれます。その意志から『行動』が起こります。あなたは旦那さんに対して、感謝という行動を起こした。わたくしはとても素晴らしいことだと、感動を覚えました」
 鏡子の目はキラキラと輝いていた。
「被害者のあなたは営業部長夫婦の悪口を言いふらすことも可能でした。でも、そうはしなかった。あなたは純粋に自分たちの無事を喜びました。あちらが絶望したのは、人を貶めようとする邪悪な意志を持ったからです。気にする必要はありません。あなたが裁くわけではありませんし。ここは社会正義と警察を信じましょう」
「そんなものなの?」
 私の言葉に、
「そんなものですよ」
 鏡子は一番の笑顔を見せた。美少女が一番輝いた気がした。