オレは冬休み間近の寒空の下、走りながら大声で泣いていた。道行く人々は呆れてオレを見ているだろう。しかし、オレはそんな人たちよりも自分の苦しい心を解放させたくて仕方がなかった。冷たい空気で張り付く喉に咳き込みながら、オレは誰も会いたくない一心でクリスマスシーズンで煌びやかな商店街を駆けていた。
★
気がつくとこの街の氏神様が祀られている久閒神社にいた。
この久閒神社がある久閒山から見える空は、陳腐な表現とは思うけど、星々でキラキラと輝いていた。寒いと空気が澄んでいるからだと中学の時習ったっけ。
オレは遠い授業の記憶の中、そんな空を仰ぎ、嗚咽した。
人間なんて信じるに値しない存在だった。
オレは何一つ悪いことをしていないのに! 話すら取り合おうとしないなんて! 先生はおろか、クラスのみんなみんなオレを邪悪な魂(ヤツ)に売りやがった!
目からこぼれる涙をかじかんだ手で拭く。しばらくここにいよう。風邪を引いてももうかまうものか。オレは賽銭箱に寄りかかり、目元を押さえた。
「こんなところでなにをやっているの? ここ、結構寒いよ。風邪を引いちゃうよ」
境内から声がした。オレは絶叫し、身を構える。
「驚かなくてもいいじゃないか。ぼくは行き場がなくなってこうやって凍えているところ」
声は少年のモノのように聞こえる。その声はやや震えているようだ。
「凍えているって、キミ!」
境内の障子を開けた。中を見ると、長く薄汚いくるくるとした赤い毛玉が震えていた。
「こんな風にね……」
顔を上げた薄汚い毛玉は震えながら体育座りをしていた。赤く長い癖のある髪の毛から見える中性的な顔はかなり青ざめている。真冬の割には随分と薄いパーカーとニッカボッカという服装だ。このぶんじゃあ、風邪どころか、寒すぎて死相が顔に現れている。
「キミ、大丈夫か?」
悲劇のヒーローぶっていたけど、この様子を見た慌てたオレはオレよりも悲劇のヒーローの赤毛の彼に首に巻いていたマフラーをかける。
「ありがとう。暖かい」
長い赤毛の少年は柔らかく笑う。
「ちょっと。こんなところで何をやっているんだ? 寒いだろうに!」
オレはリュックの中から使い捨てカイロを乱暴に取り出し、封を開け、少年に渡す。
「キミ、ぼくと同じ質問をするね」
少年は楽しそうに笑う。
「馬鹿! この街は夜になると氷点下になる日もあるんだぞ! 下手したら死ぬんだ! 死にたいのか?」
なかなかカイロを受け取らない少年にカイロを揉みながら押しつける。
「とりあえず、来い!」
オレは少年を立たせようとする。しかし、少年はフラフラと足下がおぼつかない。
「まったくもう!」
オレは少年を背負うと、リュックを胸に抱え、山を下りていった。
少年は驚くほど軽かった。貧素なオレでも簡単におんぶできたほどに。
★
自宅のマンションに戻ってきたオレは少年を沸いていたお風呂に入れた。彼がお風呂に入っている間、あり合わせの白菜と豚肉、それだけではきっと足りないので、もやし二袋と冷凍のホウレン草を土鍋に入れ、煮立たせた。中華出汁なので、あっさりはしてても、味付けに物足りなさは多分ないだろう。
IHヒーターに土鍋を置き、脱衣所にオレのジャージを持っていった。彼にとっては大きいけど、まあ大は小を兼ねるっていうしな。
正直、風呂の中で死んでいないか、と不安になっていた。だが、シャワーを浴びている音がするので、とりあえず生きているのだろう。安心したオレは、タオルを出し、着替えをあることを伝え、IHヒーターの電源を入れに戻った。
土鍋からクツクツと音が鳴り始めた。鶏ガラの良い香りもしてきた。美味しくできているといいのだけど。
「あの、ありがとう。気持ちの良いお湯だったよ。服もありがとう」
お風呂から上がった少年は湯気がまだたっている状態で一礼すると、そのまま玄関に行き、ドアノブに手をかけた。
「おい、その状態ででるつもりか?」
オレは慌てて立ち上がり、少年の手を掴む。
「だってこれ以上迷惑は……」
「死なれた方が迷惑だ! 今、鍋を作ったから、食えよ」
少年の手を掴み、オレはリビングに連れて行き、煮立った鍋がのっているテーブルの前の椅子に座らせる。
「白飯は食うか?」
あたふたしている少年の茶碗にご飯をよそう。
「箸は割り箸でいいよな」
オレはそう言って雑多なモノが入っている棚から割り箸を取り出すと、少年に渡した。
そのとき、はっきりと少年の顔を見た。
二重のネコ目はキラキラした深い青色――いわゆる瑠璃色をしていた。透き通った肌はお風呂上がりのためか赤くなっている。鼻筋も通っていて、いわゆる美少年っていうヤツはこいつのようなことを指すのだろう。赤く長い癖毛も相まって、無国籍な顔立ちだ。少なくても日本人には見えない。ちゃっかり従妹のドライヤーを使っていたようだ。髪は完全に乾いていて、キレイなウエーブがかかっている。
「お前、えらい日本語が上手いな、日本人か?」
思わずこう質問したくなるほど、日本人には見えない。
「見た目で判断しないで。日本人だよ」
少年は割り箸を割り、
「お鍋を頂いて良い?」
と食べたそうにしている。
「四の五の言わず食べろよ。凍えて死にそうなヤツに食うなって誰が言う?」
オレは少年の前にあった器にお玉で具材をなるべく均等にいれ、少年に渡した。
「ありがとう。いただきます」
器を受け取った少年は手を合わせ、食べ始めた。あまりにがっつくので、よほどお腹が空いていたのだろう。
さっきまでオレは自分の身の上に嘆いていたというのに、とっさの判断で身も知らない少年を助けてしまった。お人好しにも程がある。
「ありがとう。おいしかった」
気がつけば少年は三人前は軽く超えた想定で作った鍋をすべて平らげていた。ご飯もちゃんと食べていた。お腹が空いていたとしても、その早さに若干ひく。
「それはよかったな」
でも、安心はした。多分、これでしばらくは死ぬことはないだろう。
「ねえ、キミさ。あのとき泣いていたけど、何で泣いていたの? そんな状態でぼくを助けるって良い人過ぎるにもほどがあるよね」
会って二時間も経っていないのに、少年は命の恩人ともいえるオレのセンシティブなところに入り込んでくるなあ、とちょっと腹を立てる。でも、突然怒っても仕方がないので、
「学校でイヤなことがあったんだよ」
と言い吐き捨てる。
「ふうん。ぼくが解決できそうな事案だったら、解決したいんだけど。そうでなくても話ぐらいなら聞くよ」
「なんでお前に話を聞いて貰わなきゃいけないんだ?」
オレは名も知らない少年に呆れる。
「一宿一飯の恩義」
「はあ」
参ったなあ。こういうガキは拒絶しても、逆に興味をひくだろう。でも首は突っ込んで欲しくない。
「まずは自己紹介が先だろう?」
オレは質問に逃げた。
「自己紹介って自分からするものじゃないの?」
少年は穏やかな表情で笑う。面倒くさいヤツだな。拾ってきたのが運の尽きだろうな。諦めたオレは茶葉を急須に入れ、ポットからお湯をいれる。
「オレは春野鍵一。海空高二年G組だ。趣味趣向からいくと、多分いわゆるオタクって部類にはいる人間だろうな。お前は見た感じ中学生に見えるが、どこ中なんだ? 海空中だったらオレの従妹が知っているはずだけど……」
でも、この見事な赤く長い癖髪はきっと目立つし、校則違反で真っ先に怒られるパターンだ。少なくてもこの近辺の学校ではないだろう。少年の前の湯飲みにお茶を注ぐ。
「ぼくは……そうだねえ。仮にエスって呼んでくれないかな。希望の……希望(エスペランス)のエスって」
少年はお茶を息で冷まし、ほっこりした表情で飲む。
「美味しいお茶だね」
エス少年はあまりに美味しそうにお茶をまた一口飲む。
「仮に……って。名前を教えたくないってコトは、つまりお前は家出してきたのか? まあ、オレも中坊の頃はよくしたものだが……」
オレはどうしたものか、と頭を掻く。
家出少年を拾っちゃったか。彼の親とかに怒られたりするのだろうか。面倒くさいことに巻き込まれるのは絶対にイヤだ。どうやって彼を警察に連れて行こうかと頭を悩ませる。
「はあ、緑茶が美味しい」
安堵の笑みを浮かばせる少年に呆れつつも、家出少年エスの垣間見える無害さに根負けしたオレは、
「分かった、話すよ。話せばいいんだろう」
立ち上がると自室からノートパソコンを持ってきた。
「パソコンがどうかしたの?」
エスは不思議そうな顔で起動した画面を覗き込む。
「とりあえずコレを見てくれ」
オレは表計算ソフトを立ち上げ、ファイルを開く。
「これは売上データ? へえ、文化祭で喫茶店をやったんだねえ」
エスが言うとおり、十一月末に行われた文化祭でオレのいる二年G組はスペースオペラ的な喫茶店を開いた。このファイルはそのときの売上金額や来客人数など、文化祭におけるうちのクラスのすべてのデータをデータベース化したものだ。喫茶店はなかなかの高評価を受け、人気投票も割と上位だった。それはともかく。
「先生から材料とか部屋のラッピングとかかかった時間や費用の計算を毎日やるように言われていたんだよ。最初はアナログでノートにまとめようって言っていたのだけど、オレ、パソコンにちょっと詳しいからさ、表計算で作っていたワケよ。そうしたら、先生の求めるモノが高くなっていって。ちょっとややこしい計算とかグラフ作成とかをしなきゃいけなくなって。結果、単純な繰り返しの作業が多くなっていったんだ」
エスにこの話が通じるか若干不安になりながらざっと話す。
「単純作業ならマクロ機能だっけ。それを使えば良いのに。単純ミスもなくなるはずだよ」
どうやら通じているようだ。安心したオレは、
「もちろん使ったさ。マクロ機能を……正確にはVBAを書いたんだ」
と胸を張って言った。
そりゃあ、そうだ。
VBAとは間違いを承知で雑に言うと、操作を記録するマクロ機能を直接プログラムする言語だ。それを書けるクラスメイトは、少なくてもおれの知る限りいない。
「ぼくはそういうの書けないからうらやましいよ」
苦笑いするエスは、
「でも、それとあの大泣きと何が関係するのさ?」
とますます不思議そうな顔をする。
「先生にVBAのことを聞かれたから、素直にプログラミング言語です、って答えたのさ。最初は驚いてくれたさ。春野くん、凄いねって。クラスメイト全員にもな。生まれて初めて初めて胸を張れたのかもしれないな。でも」
オレは悔しさがだんだんこみ上げてきて、
「昨日、先生がこのデータが入ったフラッシュメモリを先生のパソコンに挿した途端、そのパソコンが壊れたって主張してきてね。先生のパソコンからクラスのデータ――成績とか写真とか――がすべてネットに流れたとか言っている。事実は確認してないけどさ。させてもくれない。確かにVBAでパソコンは壊わせる。でもソフトを立ち上げたのならともかく、メモリを指した途端にそんなこと起きるはずがないんだ! それに壊れるようにそもそも書いていないんだ! コードを見ても、なんでそんな挙動をしたか分からないんだよ。もしバグがあったら、とっくのまえにオレのパソコンで起きてる!」
目頭が熱くなる。
「先生はお前のプログラミングでパソコンが壊れたとオレを責め立て、パソコンの修理費とか請求しているんだよ。その上、情報漏洩をしたって、ウィルス感染させたって警察に突き出すつもりなんだ! オレは居候で、バイト三昧でやっとこさ自分のパソコンを買ったんだ! お小遣いから出せる金額じゃあないしさ! その上、クラスのみんなもオレが悪者だと誤解しているし、人間なんて、人間なんて!」
オレは流れていた涙をティッシュで拭くと、
「希望もへったくれもないんだ」
と顔を手で覆った。
「ねえ、春野さん。顔を上げてよ」
エス少年はオレの背中をさする。
「ぼくの見立てだとね、春野さんはキミのクラス……いやキミが通っている高校を変える希望の星なんだ。だから、そんなに簡単に絶望してもらってはたまらないよ」
「一体何を言い出しているんだ?」
エスの言葉にオレは顔を上げ、泣きベソでエスの顔を見る。
「キミに希望を見せてあげる。それでキミは希望を持てたら万々歳だ。でも、そのためには知らなくてはならない事柄がきっとある」
エス少年は良くワケの分からないことを言う。何を始めようとしているのか。
「エス。お前、一体なにを言っているんだ?」
オレは涙を手で拭う。
「さあ、行くよ!」
エスは指を鳴らした。
★
めまいと共に目を開けると、そこはうちの高校の職員室だった。夜のためなのか、部屋は暗く彩度は低い。
「なあ、エス。なんでオレたち職員室にいるんだ?」
「ぼくは希望探偵。真実は希望の手前。真実を調べるよ。キミの先生の机はどこ?」
エスはオレに真剣な目で尋ねる。希望探偵? なんじゃそりゃ?
「調べるって一体……?」
疑問に思いつつ、オレは先生のデスクに案内する。
「ふうん。このパソコンが壊れたってワケか」
エスはそう言うと先生のノートパソコンを開き、電源スイッチを押した。メーカーのロゴ、続けてOSのロゴが表示された。そしてデスクトップ画面に切り替わる。
あれ、壊れていないじゃないか。おかしいな。
「パスワードをかけていないって不用心だな」
エスはぼそり呟く。
じっと画面を見て、オレはパソコンの日付と時間表示に違和感を覚えた。
「おい、エス!」
「なに?」
「なんでパソコンは昨日の日付が表示されているんだ? 時刻も狂っている。画面には二十二時って表示されているけど、オレの電波時計では二十時だぜ。先生のパソコンがスタンドアローンのはずが……」
「ああ、説明不足だった。でも、ちょっと説明はあとにさせて。来るから」
エスはオレの質問を遮る。電源を落とし、ノートパソコンを閉じた。そしてオレの腕を引くと、学年主任の机の下にオレを押し込んだ。自身も潜り込む。
ガラリとドアが開く音がした。それと同時にふたりのオッサンの溜息が聞こえてくる。
「春野は成績は良いのに、ひょろひょろと痩せてて、死神のような目つき。根暗で何を考えているか分からない気持ちが悪いオタク。しかも、親に捨てられたんだろう? あんなんじゃ、捨てられるさ。それでもあんな風にプログラミングが出来るとは思わなかった」
担任の山岡先生はこうぼやく。椅子に座る音がした。パソコンを開き、立ち上げる音もする。
「春野さん、酷い言われようだね。ここまでコケにするってそうそうないよ」
エスは小声でつらそうにオレに話しかける。そら、そうだ。決して好きな先生じゃないけど、オレに対してここまで言ってくるなんて信じられない。また泣きそうだ。
「まあ、いいじゃあないですか。彼、少しは文化祭に役に立ったんでしょう」
隣のクラスの和月先生の声がする。
「まあ、そうだね。それぐらいは役に立って貰わないと困るんだよ」
人を馬鹿にしやがって。オレは拳を強く握る。
「ああ、そうそう。山岡先生。良いもの入りましたよ。見ますか?」
和月先生の下品な笑いが聞こえる。
「ああ。ありがとう。ちょっと確認する」
キャップを開ける音がした。
「先生、USBの向きが逆ですよ」
「ああ、そうだな。サンキュー」
和月先生の指摘に山岡先生も下品に笑う。すると、パソコンが周辺機器を認識したジングルがなった。
「おお。これがその……」
先生が読み上げたファイルは大変卑猥で過激なタイトルだった。高校生のオレですらヤバいヤツだと思うのに、中学生にしか見えないエスにはとても聞かせられないタイトルだ。
「あ、ヤッバ。クリックしちゃった。この動画を見られたら三津谷先生にセクハラって訴えられてしまうな」
「三津谷先生はフェミニストですから、こういうのには過敏に反応するでしょうね。美人で胸も大きいのに、色気も愛嬌がないんだから」
「男にとって生きづらい世の中になったよな……」
三津谷先生はオレの知る限りこの学校で一番と言って良いほど寄り添ってくれる生徒思いの先生だ。男女関係なく過ごしやすい学校生活を送れるよう努力している先生で、尊敬している。でも、その先生の悪口を聞いて気分が悪くなり、怖くなって耳を塞ぐ。
「春野さん。勇気を持って。これから真実が分かるから」
エスはオレの腕を強く握る。
「勇気って、一体?」
オレがこう言った瞬間、
「なんだ? 画面を消したのに、変な画面が出てるな」
山岡先生は小さく呟く。
「消しておけば?」
和月先生はケラケラと笑う。
「そうだな」
クリック音がした。
「消えないな」
山岡先生は焦っているようだ。
「シャットダウンしたら?」
和月先生のアドバイスに、
「そうだな」
山岡先生の言葉の後、終了のジングルが鳴る。
「帰るか、先生」
そう言う山岡先生に、和月先生は、
「そうですね。お楽しみはさっさとしたほうが良いですよね」
相変わらず下品な笑いをした。
二人は職員室から出た。
「これが真実なんだね。教員の風上にも置けないヤツだな」
デスクの下から出てきたエスは、開口一番こう言った。
オレは今起きた出来事に、絶望をしていた。
一つ目はあれだけ褒めてくれていた先生がオレを貶して蔑んでいたこと。
二つ目は自分で危ないファイルを開いておいて、全く無関係なマクロ機能を組んだオレにその責任をすべて負わせようとしていること。
恐怖心と怒りが混ざり合って身体が震えている。
「春野さん、出てきてくださいよ。一旦現実に戻るよ」
「現実ってなんだ? これは夢なのか?」
エスに震えながらオレは疑問を聞く。
「ちゃんと答えるから」
エスはそう言って、デスクの下をじっとみる。
「オレってそんなにダメな人間だったのか……」
オレは死にたくなるほど惨めな気持ちになっていた。
「では、いくよ」
エスはそう言って指を鳴らした。軽やかな音がした。
★
気がつくと、目の前には空っぽの鍋が置いてあった。
「おはよう、春野さん。気分はどう?」
エスは大きく背伸びをし、あくびをしている。
「オレは夢を見ていたのか?」
目を擦るオレに、
「実際にあった出来事を夢で見て貰ったんだ。っても、若干現実に介入はしているから、ある種のタイムスリップといったほうが良いんだろうけど」
エスはとんでもないことを言う。もっと色々聞きたかったのだけど、聞く前にエスが口を開いた。
「まとめてみるよ。最初から分かっていたことは、春野さん自身が一番知っているだろうけど、パソコンが壊れたのは春野さんのせいではないということ。そもそもの入っているフラッシュメモリが違うのだから」
エスは指を振りながら、得意げに話す。
「情報漏洩の有無はおいておいて、ここでの決定的な事実で一番の問題点は先生が学校にふさわしくない動画を持ち込んでいたことだね。最低な先生だな。ぼくの担任じゃなくて良かったよ」
家出少年でホームレスのお前が何を言っているんだ、と言いたかったが、今はその言葉を飲み込む。
「今見た出来事が実際にあった話としてもさ。それを証明できる手立てはあるのか?」
オレは頭を抱える。今日の午後から立て続けにいろんなコトが同時に起きているのだ。頭の一つも痛くなる。
「きっとうまくいくようにやってみたよ。ぼくは希望探偵。キミに希望を取り戻させてみせる。それにはキミの方にもかなり大きな勇気も必要だ」
エスは自信満々な笑顔をオレに見せた。
★
翌朝、オレは校長室のソファに座っていた。
目の前には退学届。机の向こう側には校長先生が優しそうで悲しそうな目で見ている。
校長先生は良識がある先生だけど、部下である他の先生に気圧されて、なかなか発言できない先生だと三津谷先生がぼやいていたっけ。
この状況だけでも惨めなのに、
「オオゴトにしたくなかったらサインしたほうが身のためだよ」
大柄な肉体で威圧感のある山岡先生は優しくオレにボールペンを持たせようとするのも惨めに感じた。
オレの隣にいる保護者の叔父はしんどそうな目でオレを見ていた。
エスはあのあとすぐにマンションから出た。呼び止めたけど、無言で掴んだ腕を振り払い、ヤツは出て行った。そして朝になっても帰ってこなかった。
同居している叔母も叔父も従妹もオレの身の上に起きた災難に気の毒そうに慰めてはくれたけど、どうしようもない、としか答えられなかった。エスが食べた鍋もオレのヤケ食いだということになったのは面倒くさい説明しなくて済んだから良かったけど。
「春野くん?」
山岡先生の甘ったるい急かしに我に返る。それと同時に、エスの「かなり大きな勇気」という言葉が頭をよぎった。
『勇気か』
エスがいなくて心細いけど、オレは心でこう呟く。
そして意を決して、ソファの前にある机に拳を振り下ろした。木への振動音と共にオレの腕にはしびれが走る。でも、もうあとには引けない。
「鍵一! 一体どうしたんだ?」
「叔父さんは黙ってて。これはオレのプライドなんだ」
そう言って、オレは立ち上がると、
「天に誓って、オレは悪いことをしていないです。悪いことをしていないのにどうして怒られ、しかも学校をやめなきゃいけないんですか? ここには司法がないんですか? 被害者がどうして裁いているんですか? こっちの言い分を聞かないのはどうしてですか?」
そう大声で主張した。
「春野! 何を言い出すんだ? 先生の言うことが聞けないのか? 言い訳をするのか?」
山岡先生は激昂した。
「ええ、聞けません! 自分の欲望には忠実のくせに、人の気持ちに少しも寄り添おうとしないなんて! 先生の資格はない! それにこれは言い訳ではなく、言い分だ!」
感情の高ぶりにオレは涙があふれ出てくる。
「高校生なのに、泣けば理解して貰えるって思っているのか? ガキだな」
山岡先生は鼻で笑う。
「鍵一。落ち着け。話せば分かって貰えるさ。感情的になるな」
叔父さんはオレの手を引き、座らせようとした。
「話を聞いてくれなかったら、感情の一つや二つ、爆発する!」
オレがそう叫んだ瞬間だった。
三津谷先生が血相を変えて校長室に飛び込んできた。
「三津谷先生。ノックもせず入ってくるなんて、キミらしくない」
校長先生は三津谷先生を諫める。しかし、
「わたしの行動より山岡先生の行動の方を諫めた方が良いと思いますが?」
三津谷先生は、校長室にいる全員に見えるように、ボイスレコーダーを掲げた。
山岡先生は、
「何を言い出すんだ、三津谷先生?」
眉間にしわを寄せる。
「聞けば分かります」
三津谷先生はボイスレコーダーを再生した。
『春野は成績は良いのに、ひょろひょろと痩せてて、死神のような目つき。根暗で何を考えているか分からない気持ちが悪いオタク。しかも、親に捨てられたんだろう? あんなんじゃ、捨てられるさ。それでもあんな風にプログラミングが出来るとは思わなかった』
『まあ、いいじゃあないですか。彼、少しは文化祭に役に立ったんでしょう』
『まあ、そうだね。それぐらいは役に立って貰わないと困るんだよ』
「こんな風に発言している教師が毛嫌いしている生徒を一方的に懲戒するのって間違っていますよね? 教師としてあるまじき一方的な感情が入っています。問題大ありです」
三津谷先生はレコーダーを止めると、ドスのきいた声で発言する。
「いや、それは。愛のあるかわいがりで……」
言い訳をする山岡先生に、
「弁解はいいです」
三津谷先生はピシャリと山岡先生の言葉を遮ると、
「この後の発言はここでは到底流せるモノではない最悪最低な風紀を乱すようなものでした。何を発言されたか覚えてらっしゃいますよね? 職場、ましてや学校でする発言ではありませんよ。先生、これ、どう弁解なさるのですか? シラを切るなら、続きを流しますよ」
あんなに怒っている三津谷先生は初めてだ。そして風向きは変わったのは明らかだ。
「用件はこれだけではありません。話は変わりますが、校長先生」
三津谷先生は、さっきと打って変わって、
「一度、山岡先生のパソコンを専門業者に預けてみてはどうでしょうか。うちの生徒が壊したと決めつけるのにはまだ早いと思います。彼が黒であると断定したときに退学させるなり、警察に突き出すなりすべきです。何も分かっていない段階で、どうして彼をやめさせなきゃいけないんですか?」
いつもの落ち着いた声に戻っていた。
校長先生は三津谷先生に頷くと、
「あくまで第三者からの目ですが、三津谷先生の言い分の方が筋が通っていると思います。ここまで酷い悪口で生徒を評価している教師がいること自体信じられませんし、その生徒である春野くんがパソコンを壊したというのが狂言だったら、尚更信じられません」
鬼のような形相で山岡先生を見る。
「会話の相手は和月先生ですよね? あとで三人でお話ししましょう」
校長先生のドスの利いた静かな声に山岡先生の顔は真っ青だった。
★
あれから一ヶ月経った。退学することなくクリスマスケーキも雑煮も無事に安心して食べることが出来た冬休みだった。
あれから寒さは一段と強くなっていた。息も白さが増す。
オレは肉まんを買ってコンビニから出た。山岡先生と和月先生はあの日以来見ていない。ウワサじゃ自主的にやめたとか。今の担任は臨時の先生である。情報漏洩もなかったそうだ。モノを知らないって恐ろしいにも程がある。
この肉まんは休み明けのテストが無事終わった祝いだ。買い食いだけど、これぐらいは許されるだろう。
コンビニの前で肉まんを頬張っているとき、ふと頭に少年エスがよぎった。
確かにあいつはオレに希望を持たせてくれた。クラスメイトも誤解に対して謝ってくれたし、今まで以上に仲良くなることも出来た。エスのおかげでオレは日常に対して生きる希望が持てるようになった。
エスは無事家に帰ったのだろうか。それとも、実際にアイツは存在していたのだろうか。オレが見たのは幻だったのだろうか。
半分くらい肉まんを食べたとき、誰かがこけた音がした。
振り返ると、エスがオレのジャージ姿のままでぶっ倒れていた。
「エス! お前、今までどこいたんだよ? 家には帰れたのか?」
エスを起こし、揺らす。
「ああ。春野さん……。あの後、キミが高校で無実を証明したのを見てから、キミに会いに行こうとしたのだけど、道に迷ってたんだ。一ヶ月間、拾ったモノで生活していたけど、もう我慢の限界のようだ。お腹がすいた。何かくれない?」
「正月もそんな生活だったのか! あんた、いつか死ぬぞ!」
オレは手に持っていた半分の肉まんをエスに渡す。
「わあ。久しぶりの文化的な食事だ」
エスは大切に肉まんを頬張る。
「何を食べて一ヶ月生活していたんだ?」
エスに聞こえないよう小さくぼやく。
「それだけじゃ足りないだろう。うちに来い。旨いもの作るから」
オレはエスの腕を引っ張った。
「わあ。豚汁だ」
「昨日の夜の残りだけど、煮込んであるから、今日の方が旨いと思う」
エスがお風呂に入っている間、ご飯と豚汁を並べた。
「いただいていいの?」
エスは申し訳なさそうな目で見る。
「食えば良いの! 死なれたらたまらん!」
オレは空になったお釜を洗う。
「んじゃあ、いただくね」
エスは豚汁に口をつける。
「酒粕の香りがするなあ。身体が温まる……」
エスったら美味しそうに食うなあ、と振り返って見る。
ふと聞きたいことを思い出し、
「なあ、一ヶ月前、オレの身の上に起きたこととおまえがやったことを聞いてもいいか? ついでに、助けてくれてありがとう、ってお前にお礼を言っておく」
と尋ねた。
「ん……。いいよ。わざわざお礼もありがとう」
エスは箸をお椀の上に置いた。
「ぼくはある人物が絶望した事柄が起きた場所・時間に行くことが出来るんだ。理由は聞かないでよ。ぼくにだって分からないんだから」
エスは湯飲みに入ったお茶を飲むと、
「言えるのは、ぼくの使命は希望探偵としてこの能力で人々の希望を取り戻すことだということ」
自信たっぷりに笑う。
「はあ……。つまりお前はタイムスリップして、絶望の状況を希望が持てる状況に変えるってわけか」
オレは椅子に座りお茶を飲む。
「変えることはあまりしないけどね。基本、調べることが多いかな。真実が分かれば、現在の次の行動がおのずと見えてくるから……。それに過去の意志を曲げることはまず無理なんだ。だからよっぽどのことをしない限り、過去の行動はそうそう簡単に変えることは出来ないよ」
エスは箸を持つと、豚汁を飲み、ご飯を食べる。
「だから死も簡単には曲げられない。多分出来なくはないと思うけど、代償はあるだろうね。ぼくはそんなリスキーなことはしたくないよ」
エスは箸を置き、湯飲みを片手にどこか遠いところを見ている。
「今回は誰かのデスクに置いてあったボイスレコーダーを拝借して、あの場の会話を録音していたんだ。で、それを別の先生のデスクの中に入れた。ちょっと触れば音が鳴る状況にしていてね」
エスはウィンクすると、
「でも、もし春野さんの正直な自分の感情が吐き出せなかったら……。多分希望は持てなかっただろうね。誤解が大きくなって変な風なウワサになっていたかもしれない。例えば、逆にパソコンのことで先生をおどして揺すっていたとかね」
そう茶目っ気のある目でオレを見る。
「真実は希望の始まり。真実が分かれば希望が持てる。ぼくはその手助けをしているんだ。危うく自分の命を落とすところだったけどさ。ありがとうね、ハルケン」
「あのさ、お前も恩人だけど、オレも恩人だからな。そんな命の恩人にそういうあだ名呼びは酷くないか? 少なくてもお笑い芸人にいそうなニックネームはやめてくれ」
急に距離感を縮めてきたエスにあきれかえる。
「んじゃあ、ハルさんで」
エスは笑った。
「闇子」と「エス少年」の話は現行版では同一世界観です。
なので、プロト版もこちらにまとめておきます。