1
秋口なので、流石に夕方は寒気を強く感じる。
おれは飲み干した缶コーヒーを誰もいないゴミ箱に捨てた。金属の鈍い音が響く。
カラスがうるさい。落ち込みたいのに、このカラスの鳴き声のせいで落ち込もうにも落ち込めない。
「ああ。おれはここまで頑張ってきたっていうのに、なんでこんな仕打ち……」
「どんな仕打ちをお受けになったのですか?」
澄んだ声がしたので、隣を見ると、椿黒の髪が腰まである女が立っていた。びっくりして飛び跳ねてしまう。
「そんなに驚かなくてもいいですのに」
うっすら笑う女の唇は赤くつややかで、長い睫毛はセクシーだった。金色の瞳はなんだか不気味に思えるのだが、スーツやタイトスカートの上からでも分かるグラマラスさに、明らかにハニートラップと分かっていてもノックアウトされそうになる。
「大丈夫でしょうか。お顔が青いですよ。救急車でも」
黒髪の女性は首をかしげながら、最新型の携帯電話を取りだし、何回か画面をタップする。
「あ、そんなんじゃないんだ。ただちょっと嫌なことがあってな」
おれは勢いよくゴミ箱脇のベンチに雑に座ると、両手を挙げて、大声で笑った。
「わたくしでよければ、お話を聞きますよ」
美女は微笑むと、おれの隣に座った。
この際、この女がハニートラップでも何でも良い。話を聞いてくれる人がいるというだけでなんだか安心してしまった。溜息をついたおれは、
「おれはあの会社の専務をやっているんだ」
と、ビルの上デカデカと自己主張している自社の広告看板を指す。
「なんと。かなり大きな食品メーカーじゃあないですか! ここの冷凍食品はよく頂いております」
驚く美女になんとなく誇らしくなるが、
「でも、粉飾決済……まあ、お前さんにわかりやすく言えば、会社のお金の不正がおきてね。その全責任をおれが負わされそうになっているんだ」
と言って、落ち込む。
「まあ、そんなことが! それは大変ですね」
美女は再び驚く。しかし、すっと表情が妖艶な笑みに変わり、
「でも……。もしかしたら、わたくしが解決出来るかもしれません」
と、艶やかに言った。
「どういう意味だ?」
「わたくしは魔女でして。人の運命を『願い事』として、少しだけ軌道修正できますのよ」
美女は黒髪を掻き上げ、すらりと伸びる足を組む。
「そんなバカな! そんなヤツ、どこにいるんだ?」
おれは怒号を上げる。美女は気にすることなく、
「そんなにわたくしの事を信用してくれないのであれば、少し力を使ってみましょうか?」
美女は立ち上がると、一回、指を鳴らした。
すると……なんということだろうか。さっきまでうるさく鳴いていたカラスが一斉に鳴き止んだ。それどころか、どこかへ羽ばたき飛んで消えた。
「どんなものでしょ」
美女は自慢げに笑う。
基本疑り深いおれなのだが、たった今起きた出来事と美女の吸い込まれるような金色の瞳を見ると、どうもこの美女が本物の魔女のように思えてきて、
「わかった。お前さんが本物の魔女って信じるよ。それで、どういうことをしてくれるんだ? 代償――生贄でもあるんだろう? おれの魂とかそんなの」
と、気になることを思わず尋ねる。
「いいえ。そういうものは一切ございません。ただ純粋に人々の運命を少し変えたいだけなのですよ」
美女は微笑みを一切崩さずにそう言い切った。
「なら、おれの運命を変えて……願いを叶えてくれるか?」
「ええ。もちろんでございます」
美女はさっきよりもっと素敵な笑顔を作った。
「なら、おれの権力――権力さえあれば……」
色々考えたおれは、今の状態をすべて解決する方法を思いつき、
「そうだ、おれを社長にしてくれ。社長になれば、不正をしたと罪をなすりつけたあいつらを処分できるし、おれの思い通りの会社になるはずだから」
と、美女に頼み込んだ。
「わかりましたわ。なら叶えて差し上げましょう!」
美女はそう言って、再び指を鳴らした。
しかし、何事も起きないので、
「それで終わり?」
と、おれは訝しげに美女を見る。
「いえ……終わりじゃあありません」
美女がそう言った途端、空から何かが落ちてきた。
美女はそれをキャッチすると、
「あら。ステキなものが来ましたね」
と、微笑み、おれに見せる。
それは、小さめの三日月型ネクタイピンだった。三日月と言っても、かなり細い三日月だ。
「これは月のネクタイピンです。まあ、見たまんまですよね」
美女はおれのネクタイにその三日月型ネクタイピンを着けると、
「このネクタイピンは月のように変化します。そして、お願いがあります」
こう言って、美女は落ち着いた目をする。
「この月が満ちる前に外してください。約束ですよ。絶対に」
美女は意味深にそう念を押しをした。
「では、わたくしはここで」
美女は立ち上がると、おれに一礼し、公園から出ようとしていた。
「ちょっと待ってくれ。あんた、名前はなんていうんだ?」
おれは美女を呼び止める。美女は振り返り、
「ああ、自己紹介がまだでしたね。わたくしは花都かなでと申します。以後よろしくお願いいたします」
美女――花都かなでは一礼すると、そのまま公園を出た。
2
翌日、会社に出勤し、いつも通り業務を行っていると、突然、警察が大勢やってきた。
摘発だ!
「触らないで!」
「動くな!」
という複数の男性警察官の怒号が聞こえる。
警察官が様々な書類が入ったファイルを段ボールの中に入れていく姿を見て、戦々恐々としてはいたが、話が分かってくると、どうやらおれをはめようとしたヤツの不正についてたれ込みがあったらしい。
結局、そいつらは全員捕まった。
ということは……。
あらぬおれの疑いが晴れたということだ!
ドキドキしながら、手癖でネクタイピンを触る。何か違和感があったので、トイレの鏡で見てみると、月は満ち、やや大きめの月になっていた。
「ああ、『月が満ちる』ってそういうことだったのか。なるほどな」
おれは頷いた。
かくして、おれは社長となった。
そして、今まで培った経験を元にやりたかった新事業に乗り出した。
その事業は順調に進み、業績も右肩上がり。楽しくて仕方がない。
トイレに行くたび、満ちていくネクタイピンを見て、このネクタイピンはおれの運気を表しているものだと確信した。あの花都という女は満ちきる前に外せと言ったけれど、おれの運気は絶対こんなものでは終わらない。完全に満ちるまで待とう。
そうすれば将来は安泰だ!
ネクタイピンはまだ満ちきっていないのだ。まだまだおれは進めるはずなのだ。
おれは完全に慢心しきっていた。
そう思っていた数ヶ月後、けたたましく電話が寝室中に響き渡った。時計を見ると、まだ午前五時前だ。こんな早朝になんて無礼なことを、とイライラしながら電話を取る。
「社長! 事件です! ネットを! ネットニュースを見てください!」
電話はおれの秘書からのものだった。秘書は悲痛な声で叫ぶ。
「なんだね。ネットニュースごときで、そんな風に慌てふためくなんて、お前らしくもない」
おれはイライラしながら、携帯でニュースを見る。最初は何にもないじゃあ……と思っていると、あるSNSサイトに、
「異物混入!」
「新製品って楽しみに買ったのに、虫が入っていた!」
というセンセーショナルな書き込みがいくつも並んでいた。
何故こんなことが起きたのか、と驚いた。この新製品はおれが先導を切ったプロジェクトだ。そんなことは起きるはずがない。誰かがおれをはめたのだ。そうに決まっている。
慌てて会社に出社しようと、おれはパジャマから仕事着であるスーツに着替え始めた。
おれがネクタイを締め、ネクタイピンを閉めようとしたとき、何か違和感を覚えた。
ネクタイピンの月が欠けている!
ショックを受けたおれは、動悸が激しい胸を押さえる。
「ね。ちゃんと約束を守らないからですよ」
鏡を見ると、おれの後ろにいつかの花都がいた。びっくりして不整脈で心臓が止まりそうになる。
「人をお化けのように扱わないでください。わたくしは魔女です」
うっすら微笑みを浮かばせる花都は、
「約束は守るように伝えたはずです。月が満ちりきらないうちに外してください、と」
とキツく続ける。
「この『月』はあなたの栄光でした。『月』が満ちるとあなたの栄光も輝いていきます。しかし……。栄光というものは頂点まで行ったら、落ちていく一方です。さて、『月』は欠け始めました。止めるすべはもうございません。」
美しい顔で不気味に微笑む花都に、
「おれはどうすれば良い?」
としか、おれは尋ねられない。
「どうしようもできません。また、この『月』が満ちるまで待つしかないでしょうね。いつになるかはわかりませんけど……。そうこうしているうちに、株価とか下がるんじゃあありませんか? 早く会社に行かないとマズいのでは?」
花都は他人事のように口元を押さえる。目は完全に笑っていた。
「人の不幸を笑っているのか? てめえ!」
おれは花都の胸ぐらを掴もうとする。しかし、手応えがない。
「乱暴はやめてくださいね」
美女は洗面台に座っていた。
「世間は空しきものとあらむとそこの照る月は満ち闕けしける」
花都はそう言って、おれを蔑んだ目で見る。
「なんだ? それ」
「万葉集の一句で、謀反の疑いで殺されたやんごとない身分の人を悼んで歌われた詠み人知らずの歌です。まさに今にぴったりじゃあないですか? ねえ!」
花都は高らかに笑うと、
「では。わたくしはこれで」
と言って、洗面台がある脱衣所から出た。
「おい。おい。待て」
慌てて脱衣所から出たが、花都の姿はどこにも見えなかった。