エピローグ「神様がいた喫茶店」

ひびきは家のチャイムの音で目を覚ました。
自身のベッドから起き上がる。再びチャイムが鳴る。
ひびきは起き上がると、慌てて玄関まで走って行き、ドアを開けた。
「ひびきちゃん、いくよ」
扉の向こうにマスターとゆたかと聖子が手を振っていた。
「いくって、どこへ?」
ひびきはきょとんとした様子で尋ねる。
「どこって……成田まで行って、六年間海外出張していた兄貴たちを迎えに行くんだよ。なんのために学校を休んだって言うの?」
マスターは微笑んだ。

成田空港で自身の両親と再会したひびきは親子水入らずで、東京観光をした。
久々の両親と初めての東京にとても楽しい気分に浸ったひびきだったが、心が空洞になったような虚無感を感じていた。
「コモリ……」
ひびきはその原因の名前を呼ぶ。
「ひびき、どうしたの」
「ううん。なんでもないわ」
ひびきは振り払うかのように笑顔で母親に応えた。

二泊三日の東京旅行に帰ってきたひびきは、たくさんのお土産を文子をはじめとした知り合いみんなに配っていた。
その中に唯一いない……そして誰一人「彼」のことを話題にしないことに対して、ひびきは戦慄を感じていた。

ひびきは「彼」の存在を確かめたかった。
しかし、「彼」を話題にできず、その上彼の「いた」神社に行くことに対し、非常に恐怖心を覚えていた。

――このままじゃいけない。

ひびきは意を決して、古森神社に赴くことにした。

そこはただの公園になっていた。
ひびきはの心はあまりの結果に虚空になりそうだった。
呆然となりながら、ブランコに乗り、力ない様子で、小さく漕ぐ。
どこからともなくハーモニカの素朴でハスキーな音色が聞こえてきた。
「……OVER THE RAINBOW……虹の彼方に……」
流れてくる馴染みのメロディーのする方をひびきは見る。
その演奏者にひびきは目を丸くした。

よく見かけた黒い癖毛の少年が目を瞑りながらハーモニカを吹いていた。この近辺では見かけたことのない校章の入った半袖の制服姿だった。
「コモリ!」
ひびきは大声で呼びかける。
少年はその声に、演奏を止め目を開けた。

瞳の色は茶色だった。

「ボクは飯降カナタだよ。ひびき」
少年は静かに微笑む。
「か……カナタ……!」
ひびきの顔に一筋の涙が落ち、それが洪水のようにあふれ出てきた。
「ひびき、そこまで泣かなくていいのに」
カナタはひびきの肩に手をやる。
その瞬間、ひびきはカナタに抱きつき、涙声で
「カナタ……ごめん……ありがとう……」
と叫んだ。
「もう、いいよ。とりあえず、泣き止んでよ」
カナタは困った様子でひびきの頭を撫でた。

「コモリ……『古森』はどうして、カナタに戻ったの?」
ようやく泣き止んで、カナタから離れたひびきは尋ねる。
「それは、兄さんとひびきの願いのおかげだよ」
「えっ」
カナタの意外な答えにひびきは驚く。
「どういうこと?」
「んー兄さんの願いは……確か『お前なんか消えてしまえ』だったでしょ? そして、ひびきの願いは『みんなとこの世界を行きたい』だったじゃない」
「え……ええ。そうだけど……。どうして真っ向違う願いがこういう結果になったの?」
カナタはいたずらな目をして、
「多分ね、方向性は一緒だったおかげだと思うんだよ。多分、だけどね」
「方向性?」
「うん。方向性」
カナタは優しい笑みで頷く。
「兄さんの願いの結果、『古森がいない世界』になって、ひびきの願いの結果……」
カナタは、
「『ボク』が生きている世界になったんだよ、多分ね」
と笑顔を湛えた。

「おや、ひびきちゃん。彼はだれ?」
鈍い音を鳴らしながら喫茶「がじぇっと」に 入ってきた二人にマスターは笑顔で尋ねる。
「え……えっと……」
ひびきはカナタの方を見る。カナタもひびきの方を見る。
目と目が合った瞬間、二人は思わず噴き出した。
「な……なにがおかしいんですか。全く。箸が転んでもおかしい年頃って言いますけどねえ……」
マスターは呆れ顔で二人の様子を眺める。
「と……とりあえず、ひびきの友人ならコーヒーをサービスしますよ」
マスターのその言葉に
「やったあ!」
二人は声を揃え、両手を挙げた。

コーヒーを一口含んだひびきは、
「ねえ、カナタ。あたしもあんたもあの『力』は残ってないのよね?」
カナタは腕を組んで、三十秒ほど考えた後、
「残っているよ」
「えっ」
カナタはカップを片手に、
「だってさ、ボクがキミから『力』をもらったのは『カナタ』の時だもの」
カナタもコーヒーを一口飲むと、
「もちろん、キミも使えるはずだよ。だれもこの力を奪うように願っていないんだからさ」
と片笑みを作る。
その瞬間、女性のすすり泣く声が聞こえてきた。
ひびきはその方を見ると、上品なワンピースを着た女性が涙のためかアイメイクがパンダになっていた。
「夫がまた不倫したのよお! あの人がわたしのほうだけを見てくれたらいいのに!」
泣き叫ぶ女性にカナタは近づき、
「それはあなたの願い事ですか?」
と静かに尋ねた。
その瞳は金に輝いていた。