「ちょっと待って。それ、どういう意味……? 忘れている……? 願いって……」
ひびきは青ざめた表情で古森の金の瞳を見つめる。
古森はひびきから腕を放し、
「いや……なんでもない」
と俯く。
「ちょっと! なにか話さないと分かるモノも分からないわ!」
ひびきは声を張り上げる。
古森は顔を上げた。そしてひびきを愁いを帯びた顔で見つめると、
「ひびき、キミは何も知らないんだ。知らないことになっているんだ。いいね?」
そう古森は言って、静かに病室の扉を開け、音も無く出て行った。
「古森くん……な……なにがあったのかしらね?」
聖子は古森の勢いにやや戸惑っていたようで、声が上ずっている。
ひびきはただただ、古森が怖いと顔を青ざめているだけだった。
☆
翌日、
「疲れが溜まっていたんだね。若いとはいえ、あまり無茶はしちゃ駄目だよ」
という医師の言葉と共にひびきは退院した。
ひびきは病室のベッドの上で、古森へのいくつか疑問が浮かんでいた。もちろん怖かったが、その疑問を解決するために、ひびきは「がじぇっと」の扉を開けた。
☆
「いらっしゃいませ……ってなんだあ。ひびきかあ」
雑誌を並べ直している古森は軽いテンションでひびきに微笑みかける。
「なんだって、なによ。今日はね、あたし、あんたを質問攻めにするつもりで来たから」
ひびきは古森を睨み付ける。
「な……なんだよ。ひびきったら、怖いなあ」
古森はひびきから目をそらす。
その刹那、鈍い鈴が鳴った。「がじぇっと」の扉が開く。
「いらっしゃいませー」
古森はひびきから離れ、カウンターの中に入った。
そして、お冷やとお絞りを載せたお盆とメニューを持って、客の元へと行った。
客はサングラスに長いウエーブのかかった黒髪の二十代後半ぐらい男性だった。
男はテーブル席に座ると、メニューを置いた古森を一瞥した。それから黒いパッケージに金の文字のタバコを取り出し、ライターで火をつけた。
「アイス」
男は静かに言う。
「はい? なんですか?」
古森は聞き返す。
「アイスコーヒーくれって言っているのが、聞こえないのか?」
男はぶっらぼうに叫んだ。
それに動揺すること無く、古森は
「アイスコーヒーですね。少々お待ちください」
と言ってカウンターに消えていった。
ひびきは男から少し離れたテーブル席に座った。横目で男を見ながら、態度が悪い客だわね、と心の中で呟く。
男とひびきは目が合った。ひびきは恐怖心から身構える。
「キミ、篠座ひびきさんか?」
男はさっきとは打って変わって優しい声で訊いてきた。
「え……ええ。あたし、篠座ですが?」
ひびきは応える。
「ふうん。両親がいないのに高校に通っているだなんて、苦労しているだね」
男は冷たい声で淡々と話す。
「な……なんで、知っているのよ?」
ひびきは体の芯が凍ったように感じた。
「なんで……って。調べたからさ。キミのこと」
「えっ?」
ひびきの心は完全に凍ってしまった。
次の瞬間、再び鈍い鈴の音が鳴った。
「ひびきちゃん、身体大丈夫かい?」
入ってきたのは友兼ゆたかだった。
男はゆたかを見た途端、顔を綻ばせ、
「あっ。友兼! 久しぶり!」
と言って、サングラスを外した。服装に似合わないきれいな目をした優男だった。
ゆたかは、一瞬顔にはてなマークが浮かんだが、
「あっ。飯降か。久しぶりだな。お前ほどのがこんなところに来るなんてな」
と、豪快に笑う。
「お……お知り合い……なの……?」
ひびきは顔を引きつらせて、ゆたかに訊く。
「あ……ああ。高校のダチだよ。今じゃ、翠埜市きっての大スターだ」
「大スターだなんて……」
飯降と呼ばれた男ははにかむ。
「実際、大スターじゃないか。ひびきちゃんも知っているだろ? ジョルジュだよ。あのジョルジュ」
「ジョルジュ……」
ひびきは名前をリフレインする。
「で、忙しいはずのお前がこんなところにいるんだ?」
「あ……それは……この記事をまず」
ジョルジュはそう言うと、ある新聞記事のスクラップを取り出した。
「マイト 謎の死!」
記事にはそうでかでかと書かれていた。
事の真相を知っているひびきは青ざめる。
「こいつ、マイトはオレプロデュースのアイドルだった。歌は下手だったけどな」
ジョルジュはタバコを一口吸って吐くと、
「オレ独自に何故死んだのか調べていたんだよ。で、最後に訪れたところがココってまで分かった」
ジョルジュは口をまた一服する。
「昔話になるけど、オレには弟がいたんだ。十離れた弟だった。やつにはある変わった能力を持っていた」
タバコをまた吸って吐き出す。灰皿の上で、こすりつけるように火を消すと、
「『願いを叶える力』だ。その力で色んな人の願いを叶えてきたらしくてね。にわかに信じがたいが、オレ自身の願いも叶えてもらったよ。この世界で一発当てたいって奴をね」
ジョルジュは箱からもう一本タバコを出すと、そのままくわえ、火をつけた。そして、その煙を吐くと、
「で、ある事件が起きた。弁護士夫妻の失踪だ。ひびきさん。あんたのご両親を消したのはオレの弟だ」
「は……?」
ひびきは声が出なかった。
「弟は商売敵の悪徳弁護士の願いを叶えたんだ。『嫌いな奴を消して欲しい』っていうね。そして、それを責められた弟は……」
タバコの煙を吐き出すと、ジョルジュは
「周りの人たちの願いを叶えたんだ。『お前なんか死んでしまえ』ってね。弟は死んだよ。五年前、病気でね」
ジョルジュは再びタバコの煙を吸っては吐き出す。
「アイスコーヒーになります」
古森がジョルジュの前に氷がたっぷりと入ったアイスコーヒーを置いた。
古森がそのコーヒーから離そうとした手をジョルジュは掴んで、
「死んでもなお、色んな人を不幸に陥れているのか! カナタ!」
と大声で叫んだ。
ジョルジュの勢いで、アイスコーヒーはこぼれ、ジョルジュの白いシャツにかかる。
「な……なんのこと……?」
古森は明らかに動揺している。
「マイトのマネージャーが言っていたんだよ! 天パのガキがマイトの願いを叶えてたってね! それが『オレによく似たバイト』だった聞いたとき、悪寒が起きたよ。まさか、化けて出てきただなんてな!」
ジョルジュはそう叫ぶと、古森を鬼のような剣幕で、睨み付けた。
「ちょっと、コモリ。あんた、神じゃないの?」
ひびきは顔を引きつらせ、古森を見つめる。
「は? お前、神を名乗っていたわけか。良い隠れ蓑だよな! 悪霊のくせに!」
ジョルジュはシニカルに笑う。
青ざめていた古森だったが、ジョルジュを睨み付け、コーヒーとジョルジュから勢いよく手を離すと、
「だったら、何?」
と冷たく言い放った。
「コモリ、あんた。あたしを騙していたの?」
ひびきの身体と声は完全に震えていた。
古森はひびきのその言葉を聞いた後、少し俯いた。
それから、顔を上げ、クスッと一度笑った後、
「あはははははははははは!」
とあらん限りの声で笑い始めた。
「そうだよ! ボクは一言も自分が神だなんて言っていない。ひびき、キミがただ勘違いしていただけさ。ボクは悪霊。カナタの亡霊。そういうことにしておくのなら、そういうことにしていてよ!」
古森はいつもより何倍も大きい声で叫ぶ。
渇いた打撃音が「がじぇっと」に響いた。
ひびきは手を上げ、古森は頬を触っている。
「最低!」
ひびきは泣きながら叫んだ。
「最低! あんたのこと、信じていたのに!」
古森はひびきの言葉を聞くと、再び俯いた。何も言わず走って「がじぇっと」の外へと出た。
「おい。ちょっと待て!」
ジョルジュは古森を追いかけ、扉を開ける。
しかし、そこには古森の姿はなかった。
「くそっ」
ジョルジュは言葉汚く吐き捨てる。
ひびきはただ呆然と立っているだけだった。
ジョルジュはコーヒーを一気に飲み干すと、
「オレはこれからカナタを探しに行く。友兼! あいつの狙いはひびきさんだ。ひびきさんをよろしく頼む」
そういうと、一番高いお札を置いて、店を出た。
「あのコモリくんが……飯降の死んだ弟だった……? っていうか、あいつに弟がいたなんて初耳だぞ?」
ゆたかは頭をかく。
ひびきはジョルジュと古森の話で完全に固まってしまっていた。
ゆたかは布巾をカウンターの奥から持ってくると、こぼれたコーヒーを拭き始めた。
「あ、あいつ。忘れ物してら」
ジョルジュの座っていた隣の椅子から銀色に光る細長く小さな楽器を取り出す。
「ハーモニカ?」
ひびきはゆたかからハーモニカを受け取る。
次の瞬間、記憶の波が押し寄せ、ひびきは古森に切ない気持ちが溢れ、目から涙がこぼれ始めた。声を上げて泣く。
「コモリくんがあんな子だったなんて、信じられないかもしれないが、気を落とすなよ」
ゆたかはひびきを心配そうに見つめる。
「ち……違うのよ。違うの……」
ひびきはぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「『願いを叶える力』は元々あたしのものなの」
ひびきは涙を手でぬぐうと、そう静かに言った。
「は? どういう……?」
ゆたかは目を大きく開け、叫んだ。
「だから、そのままの意味よ。思い出した……なにもかもなにもかも……」
「思い出した?」
「ええ。思い出したの。カナタの願いをあたしが叶えたせいで、あたしも含むみんなの記憶が書き換わっていたのよ」
「ちょっと、話が混乱してる。ちょっと整理しようか」
ゆたかはひびきを座らせ、向かいに自身も座った。
ひびきは制服であるプリーツスカートからハンカチを取り出すと、目元を押さえる。そして、一度鼻をすすると、
「ゆたか兄ちゃん。今から話すことは、すべて本当のことよ。ジョルジュが言っていたことはすべてあたしの力ととカナタの願いのせいで歪んじゃったの」
「……うん」
ひびきの言葉にゆたかは頷く。
「あたしに不思議な力があるのは知っているでしょ? でも、それ以上のことが、本当は出来るの。それが……願いを叶える力」
ひびきは記憶の波を一つ一つ読み込んでいく。
「でも、あたし自身、この力が苦痛だった。だって、人々の願いばかり叶って、自分の願いが叶わないんだもの。全くもって子供っぽい理由なんだけど、つまんないな、そう思ってた」
ひびきは目元を再度押さえる。
「カナタが引っ越してきたのは8年ぐらい前だわ。小二のころだから……。カナタと仲良くなったあたしは、カナタの願いを叶えたの。彼の願いは『あたしの悩みを共有したい』だったわ。そうしたら、カナタにも……カナタにも願いを叶える力が宿ったの」
「なんだって」
ゆたかの声は驚きのためか声が高くなった。
「そして、彼はあたしの願いを二つ叶えてくれたわ。一つは再び転校することになったカナタを引き留めること。二つ目は……」
ひびきは息を大きく吸って、吐くと、
「カナタに告白されたとき、『大きくなったら同じ事を言って』っていう願いよ。ガキのくせにませてたわ」
ひびきは吐き捨てるように自嘲する。
「それから」
ひびきは鼻を再度すすると、目を手で押さえ、
「ある日、あたしはある人物の『自分の嫌いな奴を消してくれ』っていう願い事を叶えたの。その日から父さんと母さんは家に帰ってきていないわ」
「え……えっ……」
ゆたかは声が詰まる。
「あたしは三日間ずっと泣いていたわ。もう人の願い事なんて叶えない! そう叫んでいたのを覚えているから……。四日目、カナタがあたしの家にやってきて……彼はこう願ったの!」
ひびきは大声で心の底から
「『キミの嫌なことをすべてボクにちょうだい。そして、ボクのことをすべてみんな忘れてよ』って!」
そう叫んだ。
「で……ひびきちゃんはそれを……叶えたのか?」
ゆたかは恐る恐る聞いてくる。
「覚えていない。でもこうなっているということは、叶えたんでしょうね。あたし……」
そう吐き捨てたひびきは、真っ赤な目をこする。そして立ち上がると、
「ゆたか兄ちゃん、カナタに謝ってくるわ」
「えっ。ひびきちゃん? ちょっと?」
ゆたかが止めるのを構わず、ひびきは勢いよく「がじぇっと」から飛び出した。
☆
ひびきは古森――こと、カナタがおそらくいるだろう「古森神社」まで走った。
白いセーラー服は汗で濡れるほど、勢いよく走った。
「カナタ!」
「古森神社」についたひびきは叫ぶ。
本殿まで入っていき、勢いよく障子を開ける。しかし、そこには古森の姿はなかった。
「どこにいったんだろう……」
ひびきは顔を俯かせ、頭を掻きむしった。
一分ほど経った後、ひびきが顔を上げると、机に置かれた青いファイルが目に飛び込んできた。その隣には糊とハサミとペンが置かれている。
ひびきはしゃがみ込んで、そのファイルを手に取り、一ページずつめくり始めた。
「うそ……」
ファイルの中身は新聞記事の切り抜きとおそら古森が書いただろう字が書かれたルーズリーフだった。
新聞記事はすべてひびきの両親の失踪事件についてのもので、ルーズリーフには、その事件の時系列順が書かれていた。
「まさか……あの時の……新聞記事って……」
ひびきは目の前が真っ暗になりそうだった。
「ひびき……?」
その声を聞いた瞬間、氷の刃が心に刺さったかのような感覚に陥った。
ひびきは後ろを振り返る。逆光でシルエットでしか姿が見えなかったが、見知ったくせっ毛で誰だかひびきには分かった。
「カナ……タ……?」
ひびきは固い声で彼の名前を呼ぶ。
「あーあ。そのファイルだけはキミにバレたくなかったんだけどなあ。まあこの際、まあいいか」
古森はそう軽い調子で言うと、本殿の縁側に座った。
「で、キミはボクを消しに来たんでしょ? 消すなら、思い切ってやってよ。未練なんてもう無いんだからさ」
古森は青々と茂った大木の方を見ながら、話す。
ひびきは、息を吸ってから、体中の息をすべて吐き出すと、もう一度軽く息を吸ってから、
「な……なにもかも思い出したの。あなたのことも。あたしの力のことも。あなたの願いですべてすべて狂ってしまったこと……だから……」
ひびきの言葉を聞いた古森は振り返る。驚きの表情を浮かばせていた。
「まさか……。なんで。なんで思い出したんだよ。未練が残っちゃうじゃあないか!」
古森は力なく叫ぶ。
「なんで……って。無意識に読んじゃったのよ。これで」
ひびきはスカートのポケットから小さく銀色に光るものを古森に手渡した。
「ハーモニカ……うわあ……懐かしい……」
古森はそのハーモニカを光に掲げる。
「あなたはいつもそれで色んな曲を吹いてくれたわよね」
「うん……」
古森はハーモニカを下ろす。ひびきは
「ねえ。カナタ。あたしと別れてから、そして死んでから、何があったの」
とあらん限り清らかな声で聞いた。
「聞きたい?」
古森は寂しそうな顔で大樹を見つめながら、
「元々ね。家族は兄さんしかいなかったんだ」
と震える声で言葉を紡ぐ。
「キミがボクの願いを叶えたあと、ボクはこの街から出ざる得なかった。一年間、親戚のうちを転々と回ったよ。そして五年前。そう兄さんの言うとおり、ボクは……」
古森はひびきの顔を悲しそうな金の瞳で見つめ、
「その家の大黒柱だった人の願いを叶えたのさ。『クズなお前なんか死んでしまえ』っていうね……。ボクは死んだよ。あっけなくね」
古森はひびきから顔を背け、手に握ったハーモニカを見る。
「それからはあまり記憶が無いんだ。ただ、キミと再会したときに騒動を起こした大蛇がいたでしょ? 彼がここにいろって言ってくれたのは覚えている」
古森はクスリと笑うと、
「彼が本物の『フルモリさん』だったんだよ。久々にやってきた参拝者さんに張り切っちゃって、でも感謝されずに、ブチ切れたんだけど。今頃、傷心旅行でも行っているんじゃないかな」
古森の言葉にひびきは、涙が溢れ出てきた。そして、
「ごめん……ごめんなさい……カナタ……あたしのワガママと力のせいで……こんな……こんな……人生を……」
その言葉を聞いた古森は立ち上がり、ひびきの方を見る。
せつなそうな笑みで、
「謝らないでよ。すべてボクが願ったことだしさ」
と優しい声で言った。
「あっ。ここにいやがったのか。カナタ!」
ひびきは声のする方を見た。
そこには、息を荒げたジョルジュがいた。
「カナタ! ここは一つ願いを叶えてくれないか?」
息が整ったジョルジュは片笑みを作る。
ひびきは古森を見る。彼はジョルジュを悲しそうな目で見ていた。
「願い……ですか。一体?」
ジョルジュは大声で、
「お前を消すんだよ! この世から、『お前』が消えれば、すべてすべて何もかもうまくいく! さあ、叶えろよ。どんな人間の願いを叶える『神様』なんだろう? お前は!」
とがなった。
古森は一度目を瞑り、それから目を開けると、
「ええ。叶えますよ。だってボクは人々を救いたかった……『神様』……になりたかったのですから……」
古森は震える声を出しつつ、指を構える。
「ちょっと待って」
ひびきは古森の右手を掴む。そして、古森を見て、
「あなたは、どんな人間の願いを叶えるんでしょ? じゃあ……あたしの最後の願いを叶えてよ!」
と叫んだ。
ひびきは古森から手を離すと、両手を絡ませ、
「あたしの願いは! 『みんなと一緒に生きたい。この世界を生き抜きたい』!」
と古森に訴えかけた。
「わかりました。叶えますよ。どちらも」
古森は静かな声でそう言うと、指を二回鳴らした。
ひびきの目の前は真っ白になった。