誰もいない夜の公園のベンチで、私はさめざめと泣いていた。
「どうして! どうして! あんな女にあなたはなびくの?」
私は何かの糸が切れたように、声を大きく上げて泣きはじめてしまった。近所迷惑かもしれないけど、今はそれどころではない。あふれ出てくる涙を出すのに精一杯だ。
突然、ポツポツ……と雨が降ってきて、五分もしない間に、本降りの雨になった。
私は傘を持っていなかったので、そのまま濡れるしかない。でも、それでちょうどいいと思った。もうすでに顔は涙でむちゃくちゃに濡れて、メイクは崩れているのだから。それに、雨の音で私の泣き声はかき消えるだろう。それになんだか、雨のおかげで自分の心が洗われるような気がしてきた。思わず笑みがこぼれてしまう。
「泣かれているのに、急に笑い出されて、どうされたのでしょうか?」
突然、きれいな声に声をかけられた。私は振り返ると、そこには真っ黒なコウモリ傘を差し、もう片方の手には透明なビニール傘を持っている黒く長い髪の女性が立っていた。
「彼氏さんに振られて……ですか……」
こうもり傘を指すダークスーツで黒髪の女性は私の隣のベンチに座り、静かに私の言葉をリフレインした。
「そう! しかも、向こうは美人でしかも金持ちのお嬢様! そりゃ、フラれるわよね、こんなブスで出来ないOLだったら!」
女性からビニール傘をもらって濡れることはなくなった私はここまで一息で言うと、大きく泣く。
そして、
「そう……。私は不幸なのよ……。ブスで生まれたのも不幸。こんな零細企業の事務員をやっているのも不幸……。不幸のカタマリなのよ、私は!」
私は声が嗄れるぐらい叫ぶと、はたと我に返り、目元を拭きつつ、
「ああ、ごめんなさい。お見苦しいところをお目にかけちゃいましたわね」
と長い黒髪の女性を見た。
女性は夜だというのに、街灯の明かりからもわかるぐらい肌は白く透明だった。そして二重の大きな目は不思議な金色をしていた。悔しいけど、この女性も美人だ。
「いいえ。わたくしも、親友に彼氏を奪われたことがありましたので、心中お察しします」
女性がそう穏やかに笑む。
「ええ? あなたのようなきれいな人が彼氏をとられるですって? そんな馬鹿な!」
「信じてくださらないのですか?」
美女は悲しげな表情で、目を伏せる。
「あ、いや。そういうわけじゃ……。びっくりしちゃっただけ。それだけ……」
私は暗い表情の女性へフォローする。
慌てた様子を見せた私が面白かったのか、女性は笑い、
「ちょっと自虐しただけですから、お気になさらないでよかったですのに」
とまっすぐ私の目を見た。
金の瞳に吸い込まれそうな気になってく。そして、お酒を一滴も飲んでいないのに、不思議なふわふわとした感覚になった。
私は頭を振って、意識をはっきりとさせると、
「ありがとう。話して、ちょっとは気分が晴れたわ」
と立ち上がる。雨はまだ酷かったけど、
「傘もありがとう」
と傘を閉じ、女性に返そうとした。
しかし、女性は受けとらず、
「もしかしたら……。わたくしはあなたの悩みを解決する手立てを持っているかもしれません」
と微笑む。
「どういうこと?」
呼び止められたので、私は再び傘をさす。
「あなたは不幸だ、とご自身で思っていますね?」
「ええ……。それが? だから、今まで泣いていたのよ」
「魔女であるわたくしの力があれば……。あなたを幸福に導くことが可能かもしれません」
「は? 魔女?」
突拍子もないことを女性が言い出して、私の目は飛び出るほど驚いた。
「ええ。わたくしは魔女です。様々な力があります。その中でも強力なもので、人間の願いを叶える力がございます」
女性の突拍子のなさに、思わず私は大きな声で笑ってしまう。
「何を笑っているのでしょうか?」
きつい言葉ではあるのだが、口調は穏やかで、表情もたおやかだった。
「え、だって。急に魔女です、って言っても、そんなオカルト、誰が信じると思うの?」
私の言動に対して、こう残念そうに、
「オカルトですか……。信じてもらえないのなら、ちょっと力を使いますね」
と言って、指を弾いた。
すると、雨がピタリとやんだ。傘を閉じ、空を見上げると、雲一つもない星々が見えるほどに空は澄んでいた。
「種も仕掛けもありませんよ」
美女は怪しげに微笑む。
私は生唾を飲み込む。この美女の言っていることや力は本物だ。きっと! 信じるに値する!
「ねえ……。私はあなたを信じるわ。だから、私を幸福にしてちょうだい。お金でも何でも払うから」
美女は笑みを崩さず、
「わかりました。あなたを幸福にして差し上げます。こちらはボランティアでやっているので、金銭はいりません」
と言って、指を弾いた。
私の頭の上から手の中に収まるぐらいの砂時計が落ちてきた。きれいなピンク色の砂が入っている時計だ。片方に砂が偏っているのが見える。
「あら。珍しいモノが現れましたね」
美女は笑みを隠すように口元に手をやると、
「これは『幸運の砂時計』です。これをひっくり返すと、あなたは幸せになれます」
と静かに言った。
「へえ……。これが……」
私はまるで宝石を見るように砂時計を見る。
「しかし、この砂時計には注意事項があります。週に一回ひっくり返してください。絶対ですよ」
美女は真剣な声で忠告をしてきた。でも、私はそんな忠告より、幸せになれるのかな、という期待の気持ちの方が大かった。
「そういえば、名前を聞いていなかったわね、魔女さん」
上機嫌な私は自分の名前を名乗った後、満面の笑みで美女を見る。
「わたくしですか? 花都かなでと申します。以後お見知りおきを」
かなでは立ち上がると、頭を深々と下げた。
★
誰もない真っ暗な家に帰ってきた。早速『幸運の砂時計』をひっくり返して置いた。砂が普通の砂と違って、ゆっくりとした調子で落ちていく。不思議な砂時計だ。そりゃ、そうか。魔女がくれた砂時計なんだから。私はそう納得すると、お風呂に入った。
★
翌朝、砂時計を見ると、時計の砂は少しずつだけ下に溜まっていた。
私はそれを確認すると、本当にこんなので幸せになれるのかなあ、あの花都という女性に期待しすぎたわ、と顔が熱くなった。まあ、金銭的に何も痛くないのだ。なんとかなるでしょう。
私はそう無理矢理思い込むと、急いで化粧をして、会社へと向かった。
お局様が作成した役所に提出する書類をまとめていたところ、記述がいくつか変なところを発見した。上司に確認をとったところ、お局様の記入ミスだった。
このミスのせいで、危うく役所から新事業の許可がもらえないところだった、と上司はお局様に注意していた。そして、私は凄く褒められた。いつも私の陰口を言ってくるお局様は面目丸潰れで、恨めしそうに私の顔を睨み付けてくるが、いつも私をいじめてるせいよ、天罰が下ったのだわ、と私は心の中でほくそ笑んだ。
そして、はたと気がついた。
これが砂時計の効果……?
ああ、こういうことだったのね。お局様の功績が私のモノになったのね! と駆け込んだトイレで片腕を上げ、ガッツポーズをとった。
★
アフターファイブの帰り道、ある男性がハンカチを落とした。私はそれを拾い、声をかけた。
「おや。ありがとう」
男性はスラリとした身体に、カジュアルではあるがセンスのある服装を着ていた。顔は非常にハンサムで、見るからに好青年という印象を受けた。
「お礼にお茶でもしませんか? お嫌でなければ、ですけど」
男性のその誘いに、私はのった。
木目調の高級な調度品が並んだおしゃれなカフェに来た。男性曰く、ここの常連らしい。
注文したコーヒーを飲みながら、私と男性は一時間ぐらいおしゃべりをした。
男性はなんとIT系ベンチャー企業の社長だそうで、ここでいつもコンピュータでいろいろ文字を打ちながら、次の事業について考えているらしい。
今日もそうするつもりだったそうだが、落とし物を拾ったくれた恩人をむげに出来ないと、私をお茶に誘ってくれたとか。
フラれたばかりの女にとって、こんなに素晴らしいことはなかった。
★
それから一週間経った。前に比べて、砂時計の中のピンク色の砂は落ちているように見えた。私は花都の言うとおり、砂時計をひっくり返した。
会社にて、自分のデスクのラップトップコンピュータに向かって、仕事をしていた。一息つこうと、マグカップに入ったコーヒーを飲もうとしていた。すると後ろから、上司が肩を叩いてきた。
突然のことに驚いて、鳥肌が立ち、マグカップをコンピュータのキーボードの上に落としてしまった。お気に入りだったマグカップは割れ、使っていたラップトップコンピュータは完璧にお釈迦になってしまった。作業していたデータは外部に保存していたため、消えなかったのは運が良かったけど、私は不注意で気が抜けていた、と非常に怒られた。
元はといえば、上司が肩を叩くというセクハラをしなければ、こんなことは起きなかったのに、と怒りがふつふつとこみ上げてきた。
自宅に帰ってきてから、私は恨めしく、ピンクの砂が静かに落ちる砂時計をにらみつけた。
「どこが、幸運の砂時計、よ? 今日の私は不幸だったわ」
わたしはこう呟くと、お風呂の準備を始めた。
この週は残業続きでクタクタに疲れた。
★
一週間経った。まだ上には砂はあるが、砂時計をひっくり返す。
スムーズに出来たおかげで残業なしで仕事を終え、帰宅していたときだった。
「やあ。また会ったね」
振り返ると、いつかのベンチャー企業の社長がいた。相変わらずスマートでハンサムだ。
「ここで会ったのも何かの縁だし、お茶しないかい?」
私は二つ返事で答えた。
男性との談笑は素晴らしく楽しかった。前の彼氏みたいに一方的に話すのではなく、私に語りかけるように、優しく話してくれた。そして、私の話にも耳を傾けてくれていた。
こんなに素晴らしい時間なんて、もう二度とないだろう……。私はそう思えるぐらい楽しかった。
帰宅するのは惜しかったけど、向こうは忙しい社長なのだ。でも、この前より進展して、なんということか! この男性と連絡先を交換することができたのだ。
ああ、こんなに私はあの彼氏にフラれて良かった、と心の中で両手を挙げ、万歳をした。
帰ってきてから、私は砂時計を愛しく撫でた。
また一週間経った。砂は全部落ちきってはいないが、私は砂時計をひっくり返す。
この週は残業続きだった。
残業が三日も続けば、ミスが起きる。直接私がミスを起こしたわけではないのだけど、チームのメンバーが起こしたミスは、連帯責任で全体のミスになる。私を含めて、チーム全員が怒られた。
これ以上何かミスをしたら、給料が下げるぞ! というブラック企業的なことまで言われて、労務局に駆け込もうかしら? と思ってしまうぐらい、私のはらわたは煮え繰りかえっていた。
★
酷い残業が続いた怒濤の一週間が過ぎた。どこが幸運の砂時計なのよ……と、溜息をつく。
私は砂時計をひっくり返そうとした。そのとき、私はあることに気がついた。
この砂時計をひっくり返すたびに、幸運と不運が繰り返されているということに!
このことに気がついた私の胸は動悸を始めた。
そうよ! 次、ひっくり返して、そのままでいれば、幸せのままでいれる!
私は高揚した気持ちで時計をひっくり返した。
★
私のカンは当たった。一週間経っても、砂時計をひっくり返さなかったら、一切不幸が起こらなくなった。
そして、幸運は続いた。
お局様が急に仕事を辞めたので、そのポストに私がつくことになった。実質、昇格だ。
そして、愛しのベンチャー企業の社長と何回も会えた。そして、なんと……付き合うことになったのだ!
事業で赤が出た彼のために、自分の貯蓄を崩したり、足りなくなったら、融資を受けにも行ったりもした。愛しい彼のためだ。なんだってする。これが私の幸福なのだから!
しばらくして、スクラッチ式の宝くじで大当たりが出た。その当選金で彼と南の島へ海外旅行に行った。
そして、その旅行先で、私は彼氏から大きなダイアモンドが光る指輪をプロポーズとともにもらった。
ああ、幸運の砂時計をひっくり返さないで、正解だったわ!
私の心はあまりの幸せに有頂天になった。
★
砂時計をひっくり返えしてから三週間経った日曜日の朝のこと。
ちょっと寒気がしたため、早めに起きた私は、砂時計を見た。砂は全部下に落ちきっていた。
そのときだった。
部屋のチャイムが鳴った。
こんな寒い朝になんのようなの、と寝ぼけ眼で玄関を開ける。
背広を着た厳つい男が二人立っていた。
男の一人は黒い手帳を見せ、
「警察です。ご同行願いますか?」
と厳しい目で私を見た。
彼が旅行先でくれたダイアモンドの指輪はなんと盗品だった。警察は私を泥棒というあらぬ罪を着せたのだ。
ちゃんと事情を話していくうちに、警察もどうやら私も被害者であるようだ、と考えるようになったようで、指輪をくれた彼について教えてくれた。
彼は泥棒――ではなく、ましてやベンチャー企業の社長ではなく、詐欺師だった。
しかも結婚詐欺師。
つまり、私はまんまと騙されたのだ。私は彼の愛の告白はすべて虚言で出来ていたのだ。
私はショックのあまり、取調室の中で、号泣した。
子供のように泣き叫んだ。
あんまりだわ! どこが幸福の砂時計よ! すっかり不幸になっちゃったじゃない!
警察官の方々は取り乱した私の様子に、なだめることもできないようで、ただ戸惑うばかりだ。
そのときだった。地震のような地響きが聞こえてきた。思わず目を閉じてしまう。
目を開くと、花都かなでがうっすらと笑みをこぼしながら、取調室の扉の前に立っていた。
「言ったじゃないですか。ちゃんと一週間ごとにひっくり返してくださいね、って」
花都はしゃあしゃあとそう言いやがった。
カチンと来た私は、
「刑事さん! この女を連れて行って! こいつが元凶よ! こいつを捕まえて!」
と叫ぶ。
しかし、私の目の前にいる刑事さんはピクリとも動いていない。まるでビデオの一時停止ボタンを押したかのように……。
「すみません。手短に済ませたいので、時間を止めさせていただきました」
花都は笑みを絶やさず、
「あの砂時計は幸運と不運をコントロールするものです。視覚化と言った方がいいでしょうか。もし、砂時計の砂――運が片方に落ち切った時、もう片方の運が強く発動してしまうんですよ。あなたは、幸運の方の砂を全部落としきってしまった。だから、これから不幸が訪れます」
と続けた。
私は花都にすがりつき、
「これ以上の不幸が訪れるって言うの? 例えば、どんな?」
と泣きついた。
「そんなの、私に聞かないでくださいよ。少なくても、お金の融資の件と、会社でのゴタゴタには巻き込まれるでしょうね」
花都は気持ちがいいぐらい素晴らしい笑顔で私の手を払いのけると、
「でも、不幸の砂が落ちたら、そのときはきっと幸運が来ると思いますよ。いつになるかはわかりませんけどね」
と言って、ドアを開け、外へと消えた。
それと同時に時間が動き始めたようで、
「どうされましたか? 顔が青いですよ?」
という女性の刑事さんが心配そうに私を見た。