そういう世界に生きているのだけど

 村田鮎子はネオンサインが怪しく光るビルの屋上から飛び降りた。
 彼女はそう思っていた。しかし、気がつけば、鮎子はビルの屋上で大の字に倒れていた。心臓の音が激しく鳴っている。一体何が起きたのか。鮎子は理解できない。
「ちょっと……。まさかここで死のうとしたんですか? もう少し常識っていうのを持った方が良いと思うのですけど」
 鮎子は身体を起こした。隣にはロリータドレスを着た女性が、はあはあと喘いでいる。年齢は鮎子と同世代か。
「助けたの……?」
 鮎子は何が起きたか、頭の中で整理する。
「ええ。助けました。目の前で死なれたら、目覚めが悪いので」
 ロリータは立ち上がると、自身のドレスを叩く。土埃が舞う。
「一体何があって自殺なんてしようとしたのでしょうか」
 このロリータの言葉を聞いて、鮎子は目頭が熱くなった。そして、大きな声で泣き始めた。
「大人ってズルい」
 鮎子はあふれ出る涙をシャツの袖で拭く。
「ズルいってどういうことでしょうか。あなただって大人ですよね?」
 ロリータは座り、鮎子に目線を合わせる。
「年齢と図体だけはね。メンタルが追いついてこないの」
 鮎子の袖は涙でびしょ濡れになっていた。
「学生時代、歌手になろうって思っていたの」
 まだ目は充血している鮎子だったが、落ち着いたのか、言葉をぽつりと言った。
「歌手、ですか」
 ロリータはオウム返しをする。
「中学、高校と合唱部だったの。高校の時は全国大会で銀賞をとったわ。合唱部全体の功績だけどね」
 鮎子はロリータから目線をずらす。
「これでもピアノもギターも弾けるし、曲も書けるのよ。クラスの中じゃ、結構評判が良かった。勇気を振り絞って、高三の夏にコンクールにデモテープを送ったわ。予選突破した。普通だったら本戦に参加しようとするでしょ。頑張って気合い入れて書いた曲だし。歌もギターもいっぱい練習した。でも……」
「でも?」
 鮎子は言語に直すのが難しい記憶と感情を紡ぐように話す。
「こんなことにかまけている余裕があるなら、受験勉強をしろ、って、祖父がね……。舞台の上に出ることを許してくれなかった。結局、棄権」
「残念でしたね」
 ロリータはネオンサインがやかましいぐらい輝く夜空を見下ろす。
「大学に入ったわ。一応、国立。そして、就職したけど、パワハラ、セクハラは当たり前の会社でね。東証一部上場の会社なのに、こんなに倫理観が古いとは思わなかった。千人の社員を抱える会社がコンプライアンスガン無視って、凄すぎるわね」
 鮎子の目には再び涙が浮かぶ。
「あのクソジジイ、散々人の人生を振り回しておいて、一ヶ月前に死にやがったのよ。あいつのせいで私の可能性を潰されたっていうのに。あの世で復讐してやろうって思って、ここに来た」
 鮎子は感情の決壊が収まったようで、大きく深呼吸した。
「あなたが歌手になったらイコール幸せになったかはまた別の話だと思いますけど?」
 ロリータは冷静に鮎子の目を見る。
「なによ、あんた、私を茶化したいわけ? 茶化すのなら死なせてよ」
 鮎子はロリータの胸ぐらを掴む。
「茶化してなんかしてません。ただ現実を言っただけです」
「現実ですって? このままだと、私はあんたをどうにかしそうだわ。さっさと立ち去って」
「イヤです。私が去ったら、どうせ死ぬつもりなんでしょう」
 ロリータは鮎子の腕から抜け出す。
「死んで何が悪いの」
 鮎子はロリータを鬼の形相で睨み付ける。
「少なくても、ここから飛び降りて死んだら、道路を掃除する人が出てきますね」
 ロリータはまるで分析を始めた学者みたいなトーンで話す。
「それにもし、この下で歩いている人にぶつかったら、その人もただでは終わらないでしょう。あと、血塗れのあなたを見て、誰かにトラウマを植え付ける可能性がありえます。それぐらいの覚悟はおありで?」
 鮎子はロリータの言葉を聞いて、手が震えた。
「確かにそうだわ。でも死にたい気持ちはどう処理すればいいの」
 また涙が出てきた鮎子にロリータは、
「感情を処理をする必要ってありますか? 自分の気持ちは大事にしなきゃなりません」
 鮎子の痛いところを突く。
「あんたの言うことはアベコベね。大事にした結果、ここに来ているんだけど?」
「思うのと実行するのは違います」
 ロリータは鮎子をまっすぐな目で見る。
「今の話をまとめると、あなたは誰かに強制された結果、自分の人生を歩めず後悔しているってことですよね。だから大人はズルい。好き勝手言って、他人の人生を狂わせるのに、先に死んで逃げればその罪はチャラになるから」
 鮎子は目を大きく見開き、ロリータを見た。
「自分で選んだ選択で失敗したら諦めがつきますけど、他人が選ばせた選択で失敗したら、後悔してもしきれない。ホント、卑怯ですよね。でも」
 ロリータはこう続けて、一拍溜める。
「同じ地獄に落ちるとは限りません。むしろ、あなたは天国に行っちゃう可能性があります。だから、復讐できない可能性が高いですよ」
「何を言って! これは比喩。言い訳よ。死にたいのよ。もう人生が何もかもイヤになったの! あんたの何が分かるの!」
 鮎子の言葉を聞いていないそぶりでロリータは立ち上がり、大きく背伸びをする。
「分かるはずがないです。あなたとは他人だし、私は夢を持つ余裕すらありませんでしたから」
 ロリータの顔は若干暗くなった。
「進学校に入学するほどは頭良かったんです、私。でも受験した理由が不純でした」
 鮎子は、聞きづらいなあと思いながらも、
「もしかして彼氏とか友だちとかと同じ高校に行くためとか?」
 と尋ねる。
「いいえ。違います」
 ロリータは否定する。
「親です」
「親?」
 鮎子はロリータの言葉を繰り返す。
「親になんの関係あるの? 私みたく進路を決められたとか?」
「いいえ、自分で高校を決めて、猛勉強しました」
「なら、何故? それぐらいで夢を持てないって、なんか変よ」
 鮎子は身を乗り出して、ロリータの話を聞く。
「私、姉弟の真ん中で生まれました。ずっとほったらかしで成長しました。親は、子供は勝手に育つ、を地で行く人でした。当時の私はレベルの高い高校に入れば、親は振り向いてくれると思っていました。でも、結果は実力を認めてはくれず、褒めてすらくれませんでした。高校は受かって当然なんですって。結局、高校入学後、モチベーションがあがらず、不登校になってそのままやめました。それから毎日、ずっと生きているか死んでいるか分からない生活を送っています。家族からはもういないもの扱いされています。座敷牢にいないだけまだマシかもしれません」
 ロリータは大きく笑うと、
「姉も弟も一流企業に勤めているって母は言っていました。三人の内一番がんばっていたの、私なんですけどね!」
 鮎子の脳内はイヤな予感でスパークした。
「もしかして、あんたも死のうとして?」
「ええ。ご名答。そうです。好きな服を着て、今、死のうとしていました。でも」
 ロリータは振り返り、
「でもあなたを見た途端、そんな気が失せちゃいました。そして冷静になってましたね」
 手を大きく振り上げ、笑った。
「生きるその行為が面倒くさかったです。食べたらトイレに行かなきゃいけないでしょう。それすらも面倒くさくて。だから、死に場所を探しに家出をしました。でもあなたと会話をしているうちに、何を恨むべきで、自分がどう生きたいか、頭の中が整理されました。ありがとう。感謝します」
「勝手に感謝しないでよ」
 ロリータの言葉に鮎子は不機嫌になる。
「別にいいじゃないですか。ところであなたはまだ死にたいのでしょうか?」
 鮎子は何故か反論できなかった。心のモヤモヤが言葉に出来ない。
「ふうん。その表情は死ぬ気は今のところないように見えますね」
 まるで子犬を見るような目でロリータは鮎子を見る。
「そうね、あんたを見ていたら、くだらなくて、今のところ死ぬ気が消えたわ。でも感謝はしないわよ。まだ機会があれば死ぬつもりだし」
「ふうん。んじゃ、歌手にもなるつもりがないってことでしょうか」
「え……?」
 ロリータは明るい表情で尋ねる。鮎子は一瞬悩んだ。
「歌手にはなりたいけど、なれないわ。無理だから」
「無理って……。どうしてそれがわかるのですか? やってもいないのに」
「年齢が、ね」
「年齢って? どういうこと?」
「年齢って言葉、知っているかしら? 物事には年齢制限があるってことよ」
 ロリータの空気の読めなさに、鮎子はイライラをつのらせる。
「相撲取りだってアイドルだって年齢制限があるの。若ければ若いほどいいの。世の中そんな風に回っているのよ」
鮎子はロリータに怒鳴った。ロリータは鮎子の怒りと悲しみに我関せずと、
「年齢なんてくそくらえですよ。きっと周りは言いますよ。三十路過ぎがこんなフリフリのドレスを着るなんてって。でも、どうして自分を周りにあわせなきゃいけないんです? 自分を軸に生きましょうよ」
 ロリータは全世界に響くような声で、
「神様、どうかお願い、私に『私』をお与えください!」
こう叫んだ。
「こんな風な世の中だから、なかなかうまく自分をコントロールできないものです。どうしてもネガティブに物事を考えてしまいます。そんな風に学校で学んできたわけですから。だから私も死ぬためにここに来たのですが」
 そして振り返ったロリータは、
「これまでの人生、他人に基準を持ってきたから、難しいことなのは当たり前ですよね。そういうことしか学んでなかったから。でも、抜け出さないと、自分の人生が歩むのはきっと難しいはず」
 両手を挙げて軽やかに笑った。ネオンサインがキラキラと彼女を照らす。
「で、あなたはどうしますか?」
 ロリータは鮎子に手を差し伸べる。
「一つ提案なのですけど、ここで歌ってみたらどうでしょうか。酔っ払いしかいないから、私以外誰も聞いちゃいないですよ。気が晴れるかもしれません」
 鮎子はロリータの手を握り、立ち上がった。
「楽器ないから、アカペラでいいわよね」
 大きく深呼吸した鮎子は、歌い出した。
 
 歌いきった鮎子は疲れからフラフラと尻餅をついた。
「素敵な歌でしたよ。こんなにとても素敵な歌がこの世に存在するんですね」
 ロリータは笑顔で手を叩く。
「メロディも歌詞もとても切なくて悲しいのに、希望が持てる歌って本当に凄いです。楽しかったですか?」
 立ち上がった鮎子は、
「ええ、とても楽しかったわ。思ったより気持ちがいいものね」
 大きく深呼吸をする。
「昔、言ってはいけない言葉で、友だちを傷つけた。謝っても修復できなかった。この歌は彼女への贖罪の歌なの」
 鮎子は両手で顔を覆い、涙声でこう続けた。
 ロリータは、クスリ笑うと、
「なら、生きなきゃなりませんね! 死んで贖うなんて、二千年前で終わったことなんですから!」
 無茶苦茶明るい声で鮎子を抱きしめる。
「私、たった今、夢を見つけました。あなたが歌手になる姿が見たいです」
「は?」
 ロリータは目をらんらんと輝かせ、鮎子の手を握る。
「私には自分がありませんでした。ずっと私を否定されて生きていましたから。でも、今、あなたの歌を聞いて自分の『願い』を見つけました。私はあなたが大勢の前で歌う姿を見たい。この歌は私だけではもったいないです」
 鮎子もクスリと笑った。
「こんなことを言ってくれたの、コンクールのデモテープ以来だわ」
「世の中には歌ってもいないのに歌手になるって言う人は多いですが、それの夢はただの絵に描いた餅です。しかし、あなたには素晴らしい歌声と書く力を実際に持っています。あとは行動に起こすだけです」
「ねえ、あなた。その言葉、裏でもあるんじゃないの? 演技でしょ」
 力強い言い切るロリータを信じられない鮎子は皮肉を吐く。
 鮎子は訝しげにロリータを見る。
「裏があってもトレースペーパーみたいに薄い裏紙ですよ」
 ロリータはフリルのついたハンカチで目元を拭く。
 鮎子から離れたロリータは、
「自分の物差しで、この人は素晴らしいって思えたのは初めてなんです。昔は両親の物差しで自分のものを選んでました。イヤと言ったら、なにもかもすべて取り上げられるので、我慢するしかありませんでした。だから、どれが自分にとって好ましいもので、どれがダメなものなのか、というものがありませんでした」
 ロリータの目は充血している。
「あなたの曲を聞いて、初めて自分の宝物を見つけた感覚になりました。是非、応援させてください」
 鮎子は頭を掻き、
「そこまでかしら?」
 不思議な目でロリータを見る。
「そこまで、ですよ。素晴らしいんですから。私のワガママ、聞いてくれるのなら、ですけど。無理は言えないですし、ただ」
「ただ?」
 鮎子はロリータの意味深な言葉に首をかしげる。
「お互い、今は死ぬことを考えるのはやめましょうよ」
 ロリータは微笑んだ。