後ろから鈍器のようなもので殴られた。目の前に星が飛ぶ。
いくら残業でいつもより退社が遅かったとはいえ、油断していたのが悪かった。月明かりが明るかったのも尚更油断を促していた気がする。
次にわたしは自分のバッグが引っ張られる感覚を覚えた。とっさに死んでも離すまいと一生懸命抱える。しかし、結局、全身を何度も思い切り蹴られて、ついに手放してしまった。
そのときだった。どこからともなく風のように、赤い長髪が飛び込んでくるのが見えた。
暴漢の胸ぐらを掴んだかと思うと、高くその身体を上げる。
「ねえ、知ってる? 現行犯だったら民間人でも逮捕出来るんだよ」
中性的な声で赤毛は言った。そして暴漢の腕をねじり、背中に持ってきた。どこからともなくロープを出してきたかと思うと、暴漢の両腕を背中に縛っていく。器用だ。この蹴られた痛みさえなければ惚れ惚れと見てしまうほどである。
気がつけば、暴漢は歩けないほどにロープでグルグル巻きになっていた。
「あ、もしもし。警察? 事件です、事件。GPSで読み込んでさっさと来てくれませんか?」
長い赤毛は丁寧な口調ながらもイライラしながら電話をしていた。その声を聞きながら、わたしの意識がだんだんと遠くなっていった。
目が覚めると、私は白いベッドの上にいた。どうやら病院のようだ。見える限りの身体は青たんだらけだった。動くと痛い。
サイフもバッグも無事だった。警察は一時的に捜査に使ったら返すと言ったけど、正直、傷だらけのバッグはいらない……と言いかけたのは内緒にして欲しい。犯人も捕まったとか。良かった。せいぜい刑罰を食らいやがれ。
医者によると、気を失ったのは殴られたショックと言うより、一時的な過労で寝不足が原因だろうと半分呆れていた。最近のドラマ一気見が祟ったか。これからはちゃんと寝よう。
翌日には退院した。痛みは続くし、保険金をせしめるために通院はしなきゃいけないけど、骨折とかたいした怪我をせずに済んだのは良かった。不幸中の幸いだ。
空が青いのが憎々しい。三月の心地良い気候なのが尚更だ。
最後の事情聴取を受けているとき、助けてくれた赤毛の人のことを警察に聞いた。警官は数秒口ごもったあと、
「個人情報なので」
と、言って何も教えてくれなかった。
一週間、自宅療養した後、無事、医者の許可が出て出社した。上司や同僚から、大丈夫かとかなり心配された。まあ、そうよねと、苦笑いするしかない。杖をつきながらの出勤は、かなり恥ずかしかった。
溜まっていた仕事も終わった週末。杖は使わなくても歩けるほどには良くなった。青たんも消えつつある。医者もびっくりするほどだ。昔から身体だけは丈夫だったから、親には感謝しなきゃいけない。
久々の出勤で頑張った。私はそんな自分にご褒美をあげようと決め、ちょっとだけ高級なイタリアンに行くことにした。そうはいっても、わたしは若干の方向音痴があるので、まともに行けた試しがない。
スマホの地図を頼りに歩いていると、誰かとぶつかった。歩きスマホはだめね、と、相手の方を向き、一言詫びようと顔を上げた。
「あ」
わたしの声と相手の声が綺麗に重なる。
相手はいつかの赤い長髪だった。
わたしは今、らっこと名乗った長い赤毛の女性と目的のイタリアンレストランに来ている。
お礼に食事に誘ったのだ。らっこは断ったのだけど、そこは田舎者のゴリ押しで連れてきた。
「あの。私、場違いでは。ドレスコードとか大丈夫なんですか?」
らっこはこの前と違っておどおどしている。
「気を遣わなくていいお店だから、ね。安心して好きなものを頼んで欲しいな。わたしの恩人なんだから、それぐらい厚かましくなってよ。お願い、ね」
挙動不審のらっこにわたしはメニューを見せる。
メニューを受け取ったらっこの顔をまじまじと見た。
らっこは健康的な肌をしていた。人相学とか知らないけれど、意志が強そうな灰色の鋭い瞳をしている。髪の毛と相まって、日本人のように見えない。かといって、ヨーロッパ系の顔にも、アジア系の顔にも見えない。アフリカ系? ともなんか違うし……。アラブ系……とも違うように見える。無国籍な顔というのが一番適切だと思う。
服装は安価で大衆向けブランドのブラウスとチノパンだった。体型も華奢で中性的だ。幼く見えるけれど、おそらく年齢は二十代前半ぐらいだろうか。きっとわたしよりは若いけど、落ち着きぶりから未成年ではないはずだ。
「あの。このたらこパスタが食べたいです」
らっこはわたしにメニューを返す。
「お酒はどう?」
わたしは再びメニューを差し出す。
「お酒を飲むのは愚痴を吐くときだけって決めているんです」
らっこは困った顔でメニューをわたしに返した。
「あら、そう。わたしだけ飲むのもつまらないし。お酒は今日はいいか」
わたしはベルを鳴らし、店員を呼んだ。
「この前は本当に助かったわ。怪我はしちゃったけど、逆に保険金で焼け太りしちゃいそうよ」
「そうですか。それはよかったです」
頼んだものが来るまで駄弁っていようと自虐話から始めた。らっこは薄らと笑う。
「らっこちゃんってお仕事何をやっているの?」
わたしは話の手がかりを見つけようと、話を振る。
「縄師です」
らっこは答えた。
「な……なわ……し?」
「はい。縄師です。縄で人を縛る仕事をしています。いわゆる古武術のひとつです。現在ではSMで良く使われますが、私は人を助けるためにやっています。警察が介入できない誘拐事件の解決が主ですね」
彼女の仕事があまりに特殊すぎて、驚いて口を開けてしまう。
「ってことは、わたしを助けたのも、お仕事……?」
「はい。仕事の延長線と言ったらそうですね。縄師として悪いことをしている人を見過ごせませんから」
らっこは真剣な目でわたしを見た。
一瞬、信じられなかった。そりゃあ、そうだ。わたしの知らないところでこのような人たちがこの国の治安を守っているというわけだから。でも、嘘つきなんて言えない。実際助けて貰っているわけだし。
「仕事に誇りをもってやっているのね。すごいわ」
あの縄さばきは見事だった。よほど自信がないと、一つ間違えれば人を殺しかねない危険な太い縄をあんな風にテキパキと扱えない。並大抵の訓練では絶対に無理だ。
「褒めて頂いてありがたいのですけど、私には誇りなんてたいそうなものなんて持っていません。何もありません。何者でもありません」
らっこは悲しそうに目を伏せた。
「何者、ってらっこはらっこでしょう」
わたしは変なコトを言う子ね、と首をかしげる。
「あの、お姉さんには故郷はありますか?」
らっこは突然聞いてきた。
「あるけど……。水と芋だけしかない雪国よ。雪が頭を越えるぐらい降るわ。雪かきが大変でね。おかげで足腰は丈夫なの」
「だから、蹴られてもなかなかバッグを手放さなかったんですね」
「かもね」
わたしたちはおかしくって吹き出す。
「方言も酷いの。ほやって、とか、ほうけえ、とか、めとんぼ、とか。はよしね! なんて親に何度も言われたわね。早く来なさい、って意味なんだけど。よそから来た人はびっくりするわ」
わたしは笑い顔を手で隠す。
「はよしね、ってなかなかパンチが効いていますね。めとんぼって言葉も面白いです。どういう意味なんですか」
「探し物が見つからないときに言うのよ。変でしょ」
「へえ……。ますます面白いですね」
疑問が解決したらしいらっこは口を押さえて笑う。
「でも、いいなあ……。そんなことが言える故郷って……」
「らっこにもあるでしょう、実家ぐらい」
わたしのこの言葉がらっこの地雷だった。
「私には実家、故郷、国、それに類するものがありません。私は何者でもないんです。だから方言、お国言葉がうらやましくて仕方がないです」
らっこは突然暗く怖い目をした。
「帰る家がありません。国籍は日本なので、生まれは日本でしょうけど、親の顔を見たことがありません。出身都道府県すらも分かりません」
衝撃的なことをらっこはポツポツと話す。
「こういうなりなので、なかなか日本人扱いをしてもらえません。警察に協力しているのに、日本人かどうかで職務質問を何度も受けました」
お冷やを飲んだらっこは話を続ける。
「捕縄術(ほじょうじゅつ)の師匠はいますが、あいつは私を人扱いすらしていなかったです。あいつの前では文化的な食事がとることは許されていませんでした」
らっこの目がだんだん死んでいくのが分かる。
「確かに私は自分の仕事に誇りを持ってます。傷つけられそうな人が助かるんですから。でも、どんだけ人を助けても、自分が見当たらないんです。自分のアイデンティティが見当たらなくて」
冷たくらっこは言葉を吐く。
「私には帰るところがないんです。日本全国、いや全世界を飛び回って仕事をしていても、ただいま、って言える場所、おかえり、って言ってくれる場所がないんです。私にはどこにも居場所がないんです」
お冷やをもう一口飲んだらっこは、目が覚めたような表情をし、涙をぽろぽろと流し始めた。
「あ……。ごめんなさい。ちょっと最近イヤなことがあって」
らっこはポケットからハンカチを取り出すと、目元を押さえた。
「二回しか会ったことがない人にこんな闇を見せちゃうなんて、私、なんていう……」
らっこの涙はハンカチを濡らす。
「むしろ、二度目だから言えたんじゃないのかな。仕事関係とは別にこう食事の場だしさ。こういう時はお酒に頼るのが一番よ! もうはっちゃけちゃおう! らっこちゃんはワインは飲める?」
わたしはメニューを再び取り出す。
「ワインは苦手で……」
「ならビールは?」
「ビールは好きですけど」
「オッケー。ビールね。わたしもビールは大好きよ」
わたしは店員を呼び、止めるらっこを無視して、ビールを注文した。
フードより先に来たビールを片手に、
「らっこちゃんとわたしの前途ある未来に乾杯!」
わたしは明るく、自分のジョッキとらっこのジョッキを重ね、鳴らした。
最初は気まずそうな表情をしていたらっこだった。しかし、一口ビールを飲むと、調子が出てきたみたいで、一気にビールを飲み干す。
「おお、いい飲みっぷり。もしかして酒豪?」
「もしかしてではないです。呑みますよ!」
勢いづいた様子のらっこは、
「もう一杯注文しますね!」
近付いてきたウエイターに大ジョッキのビールを注文した。
まぶしい朝日で目が覚めた。わたしは自分のベッドから起きる。
前日の記憶がない。イタリアンレストランの帰りに、宅飲みしようと、らっことコンビニまで行ったのは覚えている。
そこまでだ。そこまでしかない。帰宅した記憶すらない。
自分の部屋を見渡す。宅飲みのあとが全くない。そしてらっこもいない。
もしかして彼女は夢だけの存在だったのかしら。恩人にお礼が言いたいという願望が生んだ夢だったのかしら。どこまでが現実でどこまでが本当か分からない。
とりあえず、頭が動かないので、朝食を食べようと、牛乳を冷蔵庫から取り出したとき、ガチャリとドアが開いた。
服装はノーブラにロングTシャツだ。こんな姿は流石に恥ずかしい。それに独身女の部屋のドアは開いたのだ。危機感を覚える。
「起きていたんですね。おはようございます」
入ってきたのはらっこだった。ゲームキャラが描かれたエコバッグを持っている。
「今、朝食を買ってきていたんです。そう言っても菓子パンと惣菜パンですけど。二日酔いにはコーヒーって聞くんで、買ってきました。微糖と無糖、どっちがいいですか」
赤く長い髪は朝日に照らされてキラキラしている。
気がついていたら、わたしは目頭が熱くなっていた。
「らっこちゃん。おる? おるんけの?」
「昨日は私で今日はそっちですか。やめてくださいよ、もう」
困った様子のらっこに、
「幻かもってしれんって……思(おも)て」
子供のように泣きじゃくる。
「私が幻ですか」
「うん」
わたしはらっこに抱きつき泣く。
「まだアルコール残っているんじゃないんですか? お酒臭いですよ」
「そんなことを言うってことは、このらっこは幻だって言うけの」
「私は存在してますって! まだ酔っているんですよ。お姉さんの酔いが覚めるまで、私、ここにいますから!」
ぐずるわたしにらっこはなだめた。
気がつけばもう一眠りしていた。
起きると、夕方になっていた。
「らっこは……?」
寝ぼけ眼でらっこの姿を探す。らっこはBSのバラエティ番組を見ていた。
「ああ。起きましたか。ね、ちゃんと存在しているでしょう」
振り返ったらっこの長く赤い髪の毛が夕日に照らされてまぶしい。
「んじゃあ、約束は守りましたから、帰りますね。少しだけですけど、楽しかったです」
らっこは立ち上がると、自分の鞄を持った。
「らっこ、ちょっと待って」
わたしはらっこを引き留めた。らっこは振り返り、不思議な表情をする。
わたしはおニューのバッグから手帳を取り出した。手帳のメモ欄をちぎり、ここと実家の住所、そしてわたしの携帯番号を書く。
「この場所はあなたの故郷にはならないわ。でも、わたしの故郷は紹介できる。仕事の合間でも見に行ってよ。今、観光でやっていこうって頑張っているみたいだから。あと、携帯番号も交換しましょ。っていうか、教えろ。この縁は切っちゃダメだから」
「縁?」
らっこは首をかしげる。
「袖振り合うも多生の縁って言うでしょ。暴漢に襲われたわたしをらっこが助けたのも縁。道でぶつかったのも縁。宅飲みしたのも縁」
わたしは手帳のメモ欄とボールペンをらっこに渡す。
「書くだけ書いてよ。わたしが勝手にあなたの帰る場所を作りたいだけだから。電話に出なくなかったら出ないで、もう二度とわたしと会いたくなかったら、それまででいいの。故郷ってきっとそういう場所だと思うから」
らっこはわたしの目をじぃっと見る。その瞳は若干うるんでいた。
半年後、らっこからのエアメールが届いた。一週間に一回は電話していたのに、二ヶ月ぐらい前から急に電話が不通になったので安心した。
来月、帰国するらしい。「突然、音信不通になってごめんなさい。仕事が立て込んで。この便で帰ってくるので、成田空港で待ち伏せでもしていてください」の文字に、言われなくてもするわよ、と微笑んだ。