水曜日の夕方5時過ぎ、茶髪のポニーテールの少女――篠座ひびきが喫茶「がじぇっと」に入ってくるなり、
「あら、珍しや。コモリが本を読んでる」
と驚きの声をあげた。
「失礼な。ボクだって本ぐらい読むさ」
黒い癖毛に金の瞳を持つ少年、古森はそう言うと、文庫本を閉じて、大きく背伸びをする。
「何を読んでいるの?」
ひびきの問いに、古森は
「『空飛ぶ船の物語』。十年ぐらいかな、それぐらい前の小説。面白いよ」
と返事をする。
「へえ……聞いたことあったけど、読んだことなかったわ。どんな話?」
次の質問に対して、古森はいたずらっぽい目をしながら、
「それは自分で読みなよ。貸すからさ」
と言って、文庫本を差し出した。
「途中の本を借りるわけにはいかないわ」
ひびきは答える。しかし、
「実は今三周目なんだ。だからいいよ」
と、古森は「空飛ぶ船の物語」をひびきにほとんど無理矢理押しつけた。
「感想を待っているよ」
古森は立ち上がって言った。そしていすにかけてあった黒のエプロンを着けると、奥の台所へと消えていった。
ひびきは軽く息を吐き出すと、椅子に座って古森からもらった本をパラパラとめくり始めた。
一時間後。
ひびきは本をテーブルに置き、大きく欠伸をした。
「え、そんなにつまらなかった?」
カウンターの向こうにいた古森は、やや残念そうな顔をしてひびきの方を見る。
「あ、いや。そういうわけじゃ。本を読んで疲れただけよ」
ひびきは再び欠伸をする。
「ちょっと教訓めいていたけど、確かに面白かったわ」
「そう。よかった。どこら辺がよかった?」
古森は満面の笑みで、カウンターから出ると、ひびきの隣に座った。
「ん……。親友だった娘に裏切られて、絶望しているときに主人公が立ち直るでしょ。その時の台詞がよかったわ」
と言って、ひびきは本を軽やかにめくると、
「ここ……ここの台詞よ。『何にも染まらない強い自分になってみせる。二度と人に振り回されない! 決して一人を恐れないわ』ってとこ」
それから少し影のある表情を作って、
「あたしもこんな芯の強い人になりたいわね……」
ひびきは悲しげな表情で表情で古森の目を見る。
「本当にいい小説だったわ。本当に……ありがとう……」
ひびきは制服であるプリーツスカートのポケットから、薄いタオル生地のハンカチを取り出すと、目元を押さえた。
「泣かすつもりで貸したんじゃないんだけどなあ……」
古森はやや戸惑った様子で、ひびきを見る。
「わかっているわ。わかっているわよ……。感極まってよ……」
そのひびきの言葉に、古森は安堵したようで、
「ま……。ひびきも面白いって言ってくれてうれしかったよ。うん」
と、はにかんだ。
それから三十分後。
涙も止まり、目の腫れもとれたひびきは、すっかりいつもの調子を取り戻し、数学の宿題に取りかかっていた。
鈍い鈴の音がなる。
「いらっしゃいませ」
古森は店の扉に向かって、声をかける。
入ってきたのは、二人組の女性だった。
「二名様ですね。こちらの席へどうぞ」
古森は慣れた様子で客を案内する。
ひびきは働いている古森の姿を見ると、緑の塗装が少し剥げたシャープペンを置き、席から立ち上がった。そして、カウンターの奥に行き、グラスを二つ棚から取り出す。グラスに氷と水を注いだ。
ひびきが二つのグラスをおしぼりと共にカウンターに並べるのを見て、古森は
「珍しいね。ひびきが手伝ってくれるなんて」
笑いながら、ひびきに皮肉を言う。
「失礼な。あたしだってこれぐらいはやるわよ。さ、持ってって」
「わかったよ」
古森はカウンターに置かれたお冷やとおしぼりをお盆にのせ、客の座った席に向かった。
古森がお盆からお冷やを置こうとすると、黒いショートカットの女性が机を勢いよくたたいて、
「あんなクズについて行っちゃ駄目よ。あなたまでひどい目に遭うわ!」
と叫んだ。しかし、もう一方の明るいボブヘアの女性は、
「あの人は私がいないといけないのよ」
と言って、ブランドもののハンカチで涙を拭く。
「あの人はかわいそうな人なのよ。彼は昔からイジメを受けていて、友達が誰一人いないの。だから私がいないと駄目なのよ。私だけでもあの人の味方じゃないと駄目なの。だから、こうしてあの人が幸せになる方法を相談してるのよ」
と、ボブヘアの女性は大声で泣き喚く。
「中小企業のどら息子にどこまで惚れ込んでいるのやら……」
ショートカットの女性は息を勢いよく吸って、体からすべての空気を吐き出すように溜息をつくと、
「あのね、あなたはあいつがイジメられてた、っていうけどさ、身から出た錆っていうことわざ、知っている?」
ショートカットの女性は立ち上がり、
「ってことで、あいつと付き合うのなら、もう二度と私とコンタクトしないで」
そう言って、そのまま店の外に出てしまった。
鈍い鈴の音が店中に鳴り響く中、残された女性は年甲斐もなく大声で泣き始めた。
「なによ……なんでわかってくれないの! どうして、みんなあんなにかわいそうな人を見捨てるのよ?」
「お姉さん、なにかあったの?」
ひびきはボックスティッシュを片手に、ボブヘアの女性の隣に座る。
「私の彼氏は会社社長の息子なんだけど、みんなそれを妬んでいじめられてたの。だから、誰一人友達がいないって言うのよ。だから、私だけでも残らなきゃいけないの。あの人は私がいないとだめだから……」
女性は溜まっていたものを吐き出すように、勢いよく話す。
その言葉にひびきは、首をかしげながら、
「ねえ、お姉さん」
女性の目を見てこう言った。
「私がいないとあの人が駄目になる、っていうはやめた方がいいと思います。だって、それは相手を信用していないことになっちゃうでしょう?」
しかし、
「何よ。何も知らないあなたまでそんなことをいうわけ? ふざけないで! みんな彼のことを否定する! あの人に少しでも協力的な人さえいれば、消えた書類も見つかるはずなのに!」
怒ったボブヘアの女性はだだをこねた子供のように騒ぎ立てる。
「ん……あなたにも願いがあるって言うわけですね。叶えて差し上げますよ」
古森はグラスが載ったお盆を持ったまま突っ立っている状態から、やっと口を開いた。
「どういうこと?」
女性は古森のその言葉に食いつく。
「ですから、あなたに願い事があるのならば、三つまで叶えますってことですよ」
古森は不気味なほど溢れんばかりの笑みを浮かばせる。
「本当に叶うのでしょうね?」
女性は古森に挑戦的な目を投げつける。
「ええ、本当に叶いますよ。如何なさいますか」
古森は右の手をあげ、指を構える。その刹那、立ち上がったひびきは古森の右腕を摑む。
「コモリ、何考えているのよ。いつもろくな結果にならないでしょ!」
「そんなこと言ったってさ……人の願いを叶えるためにボクはいるんだよ」
古森はひびきの腕を振り払うと、
「さ、どうしますか。叶えたい願いはありますか?」
と、女性に問うた。
「そうね……。彼がすごい人だって認めてもらうためには、彼が書類を見つけた方がいいわ。そうね。これを願うわ。彼が書類を見つけますように!」
女性はそう言って指を絡ませ、祈り始めた。
「それがあなたの願いなんですね」
そう古森は言うと、軽やかに指をはじいた。
ひびきは深く溜息をついた。
三日後の夕方、ひびき現代文の問題に頭を抱えていると、先日の明るいボブヘアの女性が上機嫌で「がじぇっと」に入ってきた。
「ありがとう、バイトくん。本当に彼が書類を見つけたわ! これできっと、みんな彼のことを認めるに違いないわ!」
古森の両手を握り、そう叫ぶ。
「そ……それはよかったですねえ……。あの、仕事があるので、もういいですか」
古森は困った顔をする。
「あら、そうね。ごめんなさい」
女性は、あははと笑い、古森から手を離すと
「んじゃ、ブレンドコーヒーとセサミクッキーのセットをお願い」
と注文した。
その二日後の夕方。
学校帰りのひびきが「がじぇっと」に入ると、カウンター席でボブヘアの女性が大声で泣いていた。
「ん……? なにがあったんですか」
ひびきは、恐る恐る女性に近づき話しかける。
「もう! みんなみんな、あの人を理解しない。理解しようともしないわ! みんな、あの人に協力的であれば、彼の失敗ぐらいで、クレームの電話が鳴りっぱなしってことはあり得ないのに!」
女性は大声で泣き叫ぶ。
「さっきから、こんな調子なんだよ。どうしようか」
カウンターの向こう側にいたマスターは、困った顔でひびきの方を見る。
「どうしようか……って言ったって……。コモリはどうしたのよ」
「古森くんはちょっとお使いに行ってもらっているんだけど……なかなか帰ってこないんだよ。迷っているのかな」
ひびきはマスターの言葉を聞きながら、頬を掻く。
「元凶が何やっているのよ……まったく」
ひびきがはき出すように呟いた瞬間、
「ごめんなさい。安いところを探していました」
古森が鈍い鈴の音とともに店に入ってきた。右手には大きく膨らんだビニール袋を握っている。
「まったく、あんたったら……」
ひびきがカウンターに寄りかかりながら、腕を組む。
古森はカウンターに荷物を置くいた瞬間、ボブヘアの女性は古森の腕を掴み、
「ねえ! まだ二つ……二つ叶えられるわよね?」
と大声でがなった。
「ええ……できますけど……。どんな願いでしょうか」
答えてはいるが、明らかに古森の顔には戸惑いの三文字が浮かんでいる。それを知ってか知らずか、女性は食いつくように
「お願い! あの人の失敗をなかったことにして!」
と騒いだ。
ひびきは咄嗟に
「お姉さん、ダメ。安易に願っちゃダメ!」
と女性を古森から引き離す。
しかし、
「ん……よく分からないけど……それがあなたの願いならば……叶えますよ」
女性から離れた古森は、軽い調子で指をはじいた。
「やれやれだわ……」
ひびきは呆れた声を出した。
五日後の朝、開店前の「がじぇっと」でマスターが新聞を広げていた。
「あれ。ひびきちゃん、古森くん、ねえ……写真に写っているこの女性って、この前の女性じゃないかな」
マスターはひびきと古森を呼んで、新聞に指さした。二人は顔をのぞき込む。写真には、ボディーガードに囲まれている男女が映っていた。
「そうですね……ん……『データ改ざん 濡れ衣だった』。へえ……この会社、こんな不祥事があったんですねえ」
「あったんですねえ、じゃないわよ。コモリ。あんたがあのお客さんの願いを叶えたんでしょ?」
「そうだね」
マスターは、二人の危機感を感じていない言葉に肩を落とすと、
「ま、私の知った事じゃないか……」
と言って、次の面をめくった。
その瞬間、扉の鈴が落ちるかと思うぐらい、勢いよく入り口が開いた。
「ねえ、アルバイトくん、いる?」
入ってきた女性の顔は、涙でメイクが崩れていた。
「え……ええ。いることには、いますが」
マスターは新聞をたたみ、立ち上がる。
「今回の事件で、今やっている事業が失敗しそうなのよ! 取引先が、新聞沙汰になるようなところは信用できないって言ってね! 最後の願いが残っているでしょう? お願い、叶えて!」
こう言って泣き叫ぶ女性の姿をひびきは見て、
「ねえ、ちょっといいですか」
といつもとは違って、静かな声で呟くように言葉を紡ぎ出しはじめた。
「相手の人生は相手の人生。自分の人生は自分の人生のはずですよね。どうしてそこまで相手だけが得するような願いしか願わないんですか。あなたの願いはあなただけのモノなんですよ」
ひびきのその言葉に女性は、
「何言っているの。私の願いはあの人が幸せに暮らすことなのよ。それの何が悪いのよ? さ、バイト君。私の願い、『会社の事業を成功』を叶えて!」
古森はひびきを一瞥してから、
「わかりました」
一言だけ言って、指をはじいた。
それから四日後の夜のこと。
ひびきは「空飛ぶ船の物語」を読んでいて、古森は自分の仕事をこなしていた。
いつかのショートカットの黒髪の女性が入店してくるなり、
「バイトくん、いますか」
と言って古森に手を振った。
「君なんだよね、願いを叶えてくれる少年って」
ショートカットの女性はこの前の無礼をわびてから、こう言った。
「ええ。そうですよ。あなたもなにか叶えて欲しいんですか」
古森は指を構える。
「あ、わたしはいいよ。まるでジェイコブズの『猿の手』みたいな子が本当にいるなんて驚いただけだから」
女性は手を横に振る。古森は残念そうに腕を下ろした。
「あのね、関わらないでって言ったのに、わたしに連絡を取ってきた例の馬鹿女の末路って知りたい?」
女性は、並んで立つ古森とひびきに茶目っ気のある目で見つめる。
「え……事業は成功したんですよね?」
古森は不安そうな声で答える。
「ええ。成功したわ。もちろんね。君の力は本物だった。でもあの後が傑作なのよ。こんなことを傑作って言う自分を憎んじゃうほどにね」
女性は軽く嗤うと、
「あの娘、捨てられたのよ。例の男にね! だからあいつだけは止めておけ、っていったのに!」
女性は大きく息を吸って吐き、もう一度軽く息を吸うと、
「そもそも、あいつほどのクズは見たことがないよ。わたしね、あいつと同じ小学校だったんだけど、ただの零細企業の子供ってだけなのに、大きな顔して、ワガママ放題してたの。その結果、クラスメイト全員から爪弾きにあったのよ。中学校の時もそうだった。高校は違うから知らないけどね。だからこそ、言ったのに。『身からでた錆』ってさ」
一気に吐き出すように言った。
「あの娘とは友達を続けたかったけど……」
女性はそう言うと、ひびきが文庫本を持っていることに気がつき、
「あら……その本……」
愛おしそうにその本を見つめると、ひびきのほうを向き、
「ねえ、その本っておもしろいのかな」
と尋ねた。
「え……はい。ちょっと説教くさいけど、孤独を恐れず、自分の力で生きると決めた主人公の女の子の生き方が素晴らしくて、あたしは好きです。こんな風に生きたいと思っちゃったぐらい。今の女性にも読んで欲しかったです」
ひびきは焦って答える。
「……ありがとうね。その話、実はあの娘のために書いた話なのよ」
「えっ」
ショートカットの女性の言葉に古森もひびきも驚く。
「わたしね大学時代に、この『空飛ぶ船の物語』でデビューしたんだけど、あの頃の彼女も今回のように誰かのために動いている子だったの」
女性ははにかむと、
「人のために行動するって、素晴らしいことだとは思うけど、結局生きるのは自分一人なのよ。それを伝えたくって書いたのに……彼女もおもしろいおもしろいって話してくれたけど……結局何も彼女には伝わらなかったのよね。悲しいわ」
そして、せせら笑いながら、古森の方を見ると、
「本当に、自分のために『願い』に使ったら、よかったのにねえ……」
と言って、おしぼりで涙を拭いた。