「マスター。今日はお客さん、一人もいないんですね……」
古森は、喫茶「がじぇっと」におつかいから帰ってくるなり、こう言った。
「ああ……そうだね。土曜日のお昼なのにね、はあ……」
古森の言うとおり、お客は一人もおらず、マスターはため息をついた。
カラカラと店の扉が開いたので、古森は
「いらっしゃいませー」
と扉の方を見た。
「来たわよ」
扉から現れたのは、右手にスクールバッグを持った白いセーラー服に黒いネクタイという出で立ちの篠座ひびきであった。茶色いポニーテールが揺れている。
「なんだあ、ひびきか」
「何だとはなによ、コモリ。補講が終わったからせっかく来たのに」
ひびきはそう言って、カウンターに座る。
「補講って……ひびきってそこまで成績悪いの?」
古森は気の毒そうな顔をしてひびきを見る。
「違うわよ。うちの学校じゃあ、全員受けるものなの! 一応進学校だからね」
「さいですか」
そう言って、古森は肩をすくめた。
お客さんが来ないのは仕方がないので、三人は簡単なお昼を食べた。
後片付けをしていると、扉のにぶい鈴の音が鳴った。
マスターと古森は、いらっしゃいませ、といつものように扉に向かって言う。
「あの……わたし……お客じゃないんです……すみません……」
扉から現れた、長い黒髪でぴっちりとした淡いピンクのスーツを着た女性が気まずそうに言った。
マスターはとりあえず女性をテーブル席に座らせ、
「どうされましたか」
と尋ねた。
「えっと……友兼……『友兼ゆたか』さんをご存じですか?」
女性は少し緊張した面持ちで、マスターに聞いた。
マスターの顔に少し影ができた。
「ああ、知ってますよ。それがどうされました?」
女性は、
「今、どこにいますか? 知っているんでしょう!」
と叫んで、店中に響く声で泣き始めた。
「ちょ、ちょ……ゆたか兄ちゃんのこと、あなた、知っているの?」
コーヒーを用意していたひびきが女性にあわててポケットティッシュを渡す。
「ゆたか兄ちゃん?」
カウンターの中でカップを磨いていた古森がひびきの言葉を繰り返す。
「叔父さんの息子さんよ。つまりあたしの従兄」
「えっ。マスターって結婚してるの?」
古森の質問にマスターは答える。
「正確には『してた』ね。もう妻とは別れたから」
それから、女性の方を見て、
「私は今、ゆたかがどこでなにをしているかなんて知らないですよ。 それに息子とあんな喧嘩したら……。これ以上、私のことを詮索するのはやめてほしい」
と半分涙を浮かべながら言った。
「ごめんなさい!」
我に返った女性は、鼻をかむと、お代をおいて、そのまま逃げるように店を出た。
そのとき、彼女は何かを落としていった。
「ちょっと、お姉さん、待って!」
ひびきはそれを拾って、女性の後を追うように店から飛び出した。
「お姉さん、待ってよ!」
川の土手で、女性に追いついたひびきは、ハアハアと呼吸を整えながら、手に持っていたものを差し出す。
「これ、指輪のケースでしょ? 中身は多分、婚約指輪。あなた、ゆたかお兄ちゃんの婚約者かなにか?」
「中身を見たの?」
女性は顔を真っ赤にして、そのケースをふんだくった。
上品そうな見た目からは予想もつかない暴挙にひびきは少し驚いたが、すぐに大真面目な顔をして、
「お姉さん。ゆたかお兄ちゃんは、今かなりヤバいですよ」
と言った。
「ヤバいって……?」
女性は少し顔を引きつらせる。
ひびきは目をつむって、静かに、
「多分、生命の危機。殺されかけてる……みたいな。その指輪に残ったゆたかお兄ちゃんの……心が助けを求めているわ」
女性はひびきの言葉に大声で笑って、
「は? オカルト? ふざけないで。いくらあの人が行方不明だからって、そんな危機があるはずないでしょう! 本当にあなたゆたかの従妹? 馬鹿げてる! 信じられない!」
と叫んだ。
その言葉にひびきはかなり頭にきた。怒鳴り返そうかとも考えたが、少し深呼吸して、こう言った。
「なんなら、あたしの力をお貸ししましょうか?」
☆
「で……なんで、ボクがこんなことに……」
「女の子一人、こんな廃屋に行くわけにいかないでしょ?」
ひびきが女性にした提案……それは友兼ゆたかの救出であった。ひびきは、場所の特定だけでなく、実際に連れて帰ってみせると宣言してしまったのである。
ひびきの力でわかったのは、街の外れも外れ。森の中にあるつぶれた病院の一室にゆたかがいるということだった。
「ひびき……警察に頼もうよ……これ……かなり……」
「だああああっ! 黙ってて!」
建物の横に鬱蒼と茂っている木のうち、二人は比較的大きな木に登った。こっそりと入るつもりだったのだが、今のひびきの叫び声に、建物から誰かが出てきたようだった。
「どうしよう、ひびき……」
古森は若干あたふたした様子を見せる。そんな古森の姿を見たひびきはあることを思いついた。
「ねえ、コモリ、あんたって拳銃とかで撃たれたら死ぬの?」
「は? なんで今そんなこと? 死にやしないよ。ボクに死ぬという概念がないのはわかっているでしょ」
古森は、心配そうに廃院の方を見ながら言う。
「なら、オーケー。少し痛いかもだけど、許せ」
ひびきはそう言うと、古森を木から蹴り落とした。
☆
『今、女の子の声と男の子の絶叫が聞こえてきたな、何事だ?』
廃院になった病院の二階で、手足を縛られた上、猿ぐつわされている、くだけた七三分けをした成人男性が、そううっすらと考えていた。
彼を見張っていた人物は、さっきの絶叫を聞いて、下の階に降りていった。
『今がチャンスなんだろうけど……こんな状態じゃあなあ……』
男性がそう心の中で呟いていると、窓がガタガタと鳴った。もちろん、男性は驚く。
彼が窓の方を見ると、ポニーテールの影が窓の外で揺れていた。
「開いたわ!」
ポニーテールの持ち主がそう言うと、ガチャリという物音ともに、木から窓を通って、部屋に入ってきた。
「ゆたかお兄ちゃん、大丈夫?」
ポニーテールの持ち主……篠座ひびきが口に挟まれた布を十徳ナイフで切りながら、静かに言った。
「きみだれ?」
男性は聞く。
「篠座ひびき。記憶が正しければ、あなたの従妹のひびきよ」
ひびきは男性……友兼ゆたかの手足のロープも切る。
「ひびきちゃん? え……あの小さな? ってどうして、ここに?」
「まーそんなのあとあと。逃げましょ」
ひびきはそう言うと、窓へ向かった。そんなひびきに
「ちょっとまって、一人で来たの?」
「ん……? いや違うわ。でも大丈夫よ。奴は死なないって自身で言ってたし」
「は?」
ゆたかの質問にひびきは簡単に答える。しかしひびきの答えがあんまりに簡単すぎたために、ゆたかは理解できなかった。
「だめだよ、ひびきちゃん。オレのために誰かが犠牲になるのだけは」
ゆたかは、窓の外に顔を出し木を掴もうとしているひびきをとめる。
ひびきはやれやれとした顔をして、こう言った。
「もー。わかったわよ。んじゃ、コモリを助けにいきましょ」
☆
ひびきとゆたかが建物の一階に降り、物音を立てないように一部屋一部屋、見て回った。そして、一番奥の「院長室」と書かれた部屋前まで来た。部屋は煌々とと灯りが付いていて、外からでも
「んてめえ! なんでも願いが叶えるだと? ふざけたことを言うな!」
と言う男性の罵声と
「本当ですってば。ボクはあなたが願っていることをなんでも叶えて差し上げるって言っているのになあ」
と言うと少年のとぼけた声が聞こえてくる。
ひびきは意を決して、「院長室」と書かれたドアを勢いよく開け、
「コモリ!」
と少年の名前を呼んだ。
「まったくもー! ひびきったらひどいよ! ボクを蹴落とすなんて。捕まったじゃあないか!」
古森は簀巻きでつり下げられ、黒装束の柄の悪い男性に拳銃を突きつけられていた。そしてひびきがドアを開けたと同時に、もう一人いた同じ黒装束の男性がドア……すなわちひびきの方に拳銃を突きつける。
「ちっ。もう一人いたのか! てめえサツを見張ってろって言ってただろ」
古森に拳銃を突きつけている男が、もう一人に言う。
「いーじゃねえか。どっちにしろ、こいつら全員始末しちゃえば」
その言葉にひびきは身体全体から血がなくなっていくのを感じた。
ゆたかは
「殺すのはオレ一人だけにしてくれ! その二人は殺さないでくれ!」
と叫ぶが、
「なあに考えている? おめえ、誰に言っているんだ?」
ひびきとゆたかに拳銃を突きつけている男が、そう言って下品に笑う。
「でさ、話が途中になったけどさ、ボクはあなた方の願いを叶えるから、これ解いてくれないかな」
ひびきは古森のこの言葉を聞いて、あまりの空気の読めなさに目の前が真っ暗になりそうだった。
「てめえも何考えているんだ? そんなんで助かろうとしているのか?」
古森に拳銃を突きつけていた方が、拳銃を彼の首元にあて、脅した。
「いや、ボクは人間たちの幸せを願っているんだ。それは犯罪者であるあなた方も含まれている」
古森はさっきまでの落ち着きのなさは一切なく、むしろ穏やかな表情を作っていた。
「はっ。何を?」
ひびきに拳銃を突きつけている男は、古森の発言にあきれかえるが、
「んじゃあ、物は試しだ。願いを叶えてもらおうかね! もしも叶わなかったら、どうなっているか、わかるよな?」
もう一方の男が古森の眉間に拳銃の先を押し合ってて、静かに言った。
「ひびきちゃん、何が一体始まるって言うんだ? 彼は一体何者?」
「細かいことはあとあと。まったく、こいつの考えていること訳分からないわ……」
ゆたかとひびきは小声で話す。
解かれた古森は体についたほこりを両手ではたくと、男二人に、
「ボクはあなた方の願い事を三つ叶えることが出来ます。よく考えて使ってください」
と厳かに告げた。
男の一人が、
「んじゃあ、俺ら二人いるから、合計六つか!」
と叫んだ。
「ああ。そうですね。でも、例えば、危機的状況に二人で陥って、一人が『助かりたい』と願った場合、願った方だけが助かるんです。例えばですけどね」
古森は謎の微笑みを浮かばせた。その微笑みに、ひびきは何故か戦慄を覚える。
「そうか……。んじゃあ、俺らで二人とも逃げ切るには3つしか使えないんだな……。んじゃあ、一つは金だ! 逃亡費用の金を用意しろ! 出来なかったら……わかるよな?」
もう片方の男が古森に対して凄む。
「はい。では、叶えましょう!」
古森はそう言うと、指を鳴らした。
次の瞬間、犯人の目の前に大量の札束の入った袋が降ってきた。
「うわお!」
黒ずくめの男二人は、袋の中をのぞき、感歎の声をあげる。
ゆたかはその様子に腰がくだけ、その場に座り込んでしまった。ひびきも古森の考えを最初から読めないが……ますます分からなくなって、顔面蒼白になった。
「んじゃあ、次は車だ! 車! 車を表に用意しろ!」
調子に乗った黒ずくめは、古森に次の願い事をした。
「はい、ただいま」
古森は指をはじいた。
外でドゴンという音がした。
ひびきが窓から玄関を見ると、黒塗りの外車が玄関先にあった。
「最後の願いだ。俺たちを絶対に捕まらないようにしろ」
「はい。分かりました」
ひびきはいてもたってもいられなくなって、古森に駆け寄り、腕をつかんだ。
「コモリ、あんた。何を考えているの? 神が犯罪の片棒担いでどうするのよ」
古森はひびきの腕を振り払うと
「ひびき。キミはボクに指図する気?」
古森の金の目がきらりと光った。ひびきは寒気がして、もう何も言えなかった。
「ちょっと邪魔が入りました。すみません。では、叶えますね」
そう言うと、指をパチンとならした。
黒ずくめの片方がもう片方に聞く。
「何か変わったか?」
「いや……何も変わらないな。でも、さっきの金と車を見たら、このガキを信じるほかないだろ」
男の一人が古森の方を見て言う。
「ボクの力は本物です。信じようが信じまいが、あなた方次第ですよ」
古森は明るい口調で、口角を上げる。
黒ずくめの男たちは目配せする。そして、片方が
「てめえのことは一応信じるぜ。でも、保険をかけておくからな」
と言うと、古森の隣にいたひびきの腕をつかみ、男の腕で首を絞められた。恐怖のあまり、ひびきは声が出せない。
「ひびきちゃん!」
ゆたかはひびきを取り戻そうとするが、札束が入った袋を持っている黒づくめに拳銃を突きつけられ、
「ここで暴れない方がいい。お前も死んで、このガキも死んでこの女も死んだら意味ないだろ」
と言って、ひびきを連れて、そのまま外へ出て、車に乗り込み、発進させた。
ゆたかは彼らを追いかける。しかし、車と人間ではまったく比べものにならない。無情にもひびきを乗せた車が走り去った。
顔を真っ青にしたゆたかは、ゆっくりと後から来た古森の胸ぐらをつかむ。
「おめえ、何を考えているんだ?」
古森は不気味な微笑みで、
「あなたも願い事があるんですね。叶えて差し上げますよ」
と金の目が再び光る。
「あることにはあるが……! 絶対に叶うんだろうな?」
「はい、叶います。早く言わないと、叶うものも叶わなくなりますよ」
ゆたかは古森を離すと、
「オレの一つ目の願いは……!」
☆
それから一週間後。
ひびきは久々に登校した。
あの後、ひびきを連れ去った黒ずくめの二人組の車は、山道でガードレールを乗り越え、そのまま谷底に落ち、男二人はそのまま行方不明になった。一方、落ちたとき、偶然車から飛び出たひびきだけは、奇跡的に傷一つなく、すぐに無事助け出された。
しかし、いくら無事に助け出されたとしても、事件に巻き込まれたことで、さすがのひびきも精神が堪えた。学校に行く気が起きず、もちろん古森のいる「がじぇっと」にも行く気が起きず、家のベルがなっても、一週間家から出なかった。
久しぶりの学校帰り、ひびきは、喫茶「がじぇっと」の前に立っていた。
ひびきは意を決して「がじぇっと」の扉を開ける。鈍い鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませー。ってなんだ、ひびきか」
古森の残念そうな声を聞いたひびきは、急に怒りがこみ上げてきて、
「あんたねえ! 誰のせいで死にそうになったと思っているの?」
と古森の胸ぐらをつかんだ。
「仕方ないでしょ。ボクの役目は人間の願いを叶えること。それはどんな人にでもある権利なんだから。でもね、今回のことで分かったことがあるんだ」
「なによ」
ひびきは腕を緩める。
「自分の私利私欲のために……特に人に危害を加えようとして、ボクの力を使おうとすると、こうなるんだよ。多分ね。だって、ほら、結局、犯人たち捕まらなかったでしょ?」
古森の言うことに、はてなマークが浮かんだひびきであったが、
「あいつらが願ったのは……絶対に捕まらないようにしろだから……あっ。そういうことね! 行方不明になったら、捕まりようがないわ!」
「そういうこと。逆に、ゆたかさんは純粋にひびきを思って、ボクの力を使ったから、ほら、すぐに助かったんだよ。ゆたかさんに感謝してね」
古森はそう言うと、手に持っていた布巾でカウンターを拭き始めた。
「ん……。どういう……?」
ひびきの表情はなにも理解できていないのが分かる。
「だからね? ゆたかさんは、ひびきが怪我一つなく助かることと、すぐに助け出されることを願ったの」
古森は手を止め、ひびきの方を見る。少し不機嫌な顔をしながら、話す。
「ゆたかったら……」
カップを磨いているマスターはそう言って微笑む。
またカラカラという扉が開く音が聞こえてきた。
店に入ってきたのは、噂をすれば影か、友兼ゆたかとこの前の長い黒髪の女性だった。
「親父! 改めて紹介したい人がいるんだよ!」
ゆたかは笑顔でマスターに叫ぶ。
「ん……? いつの間に仲直りしているの? っていうか、ゆたか兄ちゃん、そもそもさ、なんであんなところで監禁されていたの?」
ゆたかの勢いをひびきが制止する。
「ひびきが家に引きこもっている間に仲直りしたんだよ。っていうか、ひびきだって、引きこもっていたじゃないか。ボクのこと、言えないんじゃないの? ボクさ、何度もひびきの家まで行ったんだよ? 呼び鈴鳴らしても出ないなんてひどくない?」
古森はいたずらっぽい目でひびきのことを見る。
「ゆたかはね、刑事になったんだよ。ある通報を受けて、向かった先で捕まったんだって。無謀すぎるよねえ……。何はともあれ、みんな無事で良かったよ」
マスターはそう笑う。
ひびきは少し口を開きそうになったが、ゆたかの
「話を戻すよ!」
という声に口を閉じてしまった。
ゆたかは上機嫌で、しかし真剣な表情で
「コモリ君! ねえ、もう一つだけ、願いを叶えられるよね」
と古森の肩をつかむ。
「えっ……ええ。そうですけど?」
戸惑いを隠せていなかったが、質問にはきちんと答えた。
「オレら……今度結婚するんだ。ずっと幸せに暮らしていけるように願掛けしたいんだよ。ダメかな?」
そう言うと、次は女性の肩を抱き、二人は見つめ合った。
「その場合は、二人で願わないと無理ですよ」
ふとひびきは今の古森がとても純粋な微笑みに気がついた。
「ええ。分かっていますわ」
女性は上品に微笑む。
「では、願ってくださいね……」
古森は指を思い切りはじいた。
その瞬間、ひびきは気がついた。
古森は、本来、こういう願いを叶えたがっているのだということに。