第一柱「神様はアルバイト」

「ブレンドです」
ここは翠埜市街地の左右知商店街にある「喫茶がじぇっと」。商店街の人通りは多くもなく少なくもなかった。この喫茶店も例外ではなく、まばらではあるが客で席は埋まっていた。
髭面のせいで割と年を食っているように見えるここのマスターは、カウンター席にいる女性客の前にコーヒーを置く。
「ねえ、マスターきいてくださいます?」
緩いパーマをかけた濃いめの茶髪の女性がうわずった声で話しかけてきた。落ち着いたメイクに高級そうなワンピースが印象的だ。
「はい、なんでしょうか」
マスターは片付けをしながら答える。
「うちの旦那、また浮気をしたのよおっ」
その言葉を吐き出した途端に、女性客は大声を上げて泣き始めた。
「まあ、まあ。お客様。落ち着いて落ち着いて」
マスターは振り返り、女性客を落ち着かせようとするが、女性はなかなか泣き止まない。マスターは、
「参ったな……」
ボソリと呟く。
すると、
「お客様。なにか願い事でもあるんじゃないですか?」
という若い男性の声が聞こえてきた。
「古森くん! ちょっと!」
マスターはカウンターから身を乗り出し、慌てた様子で叫ぶ。
「願い事? でも願ったって、叶いようがないのよ!」
大声で叫んで顔を上げた女性の顔は、見るも無惨に崩れていた。それでも気にせず、女性は古森と呼ばれた金の瞳を持つ黒髪で天然パーマの少年にすがりついた。
「ボクは三つまでの願いを叶えることができます。一気に使わなくていいので、ゆっくりと考えて……」
「本当に叶うんでしょうね?」
訝しげな表情を女性は作る。
「えぇ。絶対に叶います。ボクはそのために存在しているんですから」
「古森くん。勝手な行動を起こすと、ひびきに怒られるよ」
マスターは古森を止めに入るが、
「でも、少しは自分の力を使わないと、ボク自身の存在価値がなくなっちゃうんで」
と言って言うことをきかない。
「ねえ、あなた。それってどういう意味なの?」
女性客は尋ねる。
「ボクは人々の願いを叶えるために存在しているんです。さあさ、願い事を言ってください。叶えて差し上げますから」
女性は涙を拭くと、
「わかったわよ。あなたが悪魔でも何でもいいわ。うちの主人と浮気相手を別れさせて」
「悪魔じゃあないんだけどなあ……。まあいいや。承知致しました」
古森少年は軽やかにと指をはじいた。

翌日。
「古森くん。ありがとう。主人が泣きながら謝ってきたわ。もう浮気しないって誓ってくれたのよ」
女性客はニコニコとした笑顔で「がじぇっと」にやってきた。そして、コーヒーと手作りクッキーを注文し、それらを食べ、その上、「主人へのお土産」として、名物のセサミクッキーを持ち帰った。
「古森君、これで本当に良かったの?」
マスターは古森に訊く。
「さあ? 二つ目の願い事を叶えて欲しいってこないことを祈るばかりですよ」
古森は遠いところを見ていた。

一週間後のこと。
「がじぇっと」に再び女性客がやってきた。
化粧はすでにぼろぼろだった。どうやら泣いていたようだ。
「古森くんだったわよね! もう一度、願い事を叶えて!」
女性は吼える。マスターは、
「お客様、それはやめておいた方が……」
と女性に近づき、肩を抱く。
「いいえ、もういいの。悪魔に魂売ってもいいわ。お願い。もう一度、主人と浮気相手を別れさせて! そうすれば、きっと再び私の元へ戻ってきてくれるわ……!」
「そう思うのなら、そう信じてください。では、願いを叶えましょう」
そう言って、古森少年はにこやかに指をはじいた。

そのまた一週間後。
「うわあああああああああああああああああああああああああああ」
という叫び声とともに、女性が「がじぇっと」に飛び込んできた。
「なによなによ」
丁度店番をしていたのは、マスターの姪で茶髪をポニーテールにした少女、篠座ひびきだった。
「古森くんを出して。お願い。叶えたい願い事があるの」
すごい剣幕で睨んでくる女性にひびきは、目を逸らしつつ、
「わ……わかったわよ……奴、今、休憩に入っているの。呼んでくるから、待ってて」
店の奥に入ったひびきは、寝てた古森をたたき起こすと、女性の前に連れて行った。
「はあ、また叶えたいことがあると?」
古森はボサボサの髪を掻く。ひびきはため息をつく。
「えぇ……浮気は、もうしないって言ったのに……。ねえ、もう一つだけ願い事叶えられるでしょ? ねえ、叶えてよ!」
ひびきは大声で叫んだ。
「だめよ! もうコイツの力に頼っちゃ駄目。願い事を叶えれば叶えるほど、身を滅ぼすわ」
「んーでも、それは人間の願い次第なんだよねえ……」
「だけど!」
ひびきは古森に食って掛かる。
「いいの。もう……あの人が私以外のすべての女性に興味を持たないようになれば。そうすれば、浮気なんかしないわ……。お願い! 叶えて!」
女性の言葉に古森はひびきの方を一瞥すると、
「わかりました」
と言って無表情に指をはじいた。

女性は開放感にあふれていた。
これで、主人は私のモノ! と……。しかし、帰り道、あるホテルにサラリーマン風の男性と彼女の夫が仲良く車で入っていくのを見た。
女性は声が出なかった。それから、絶叫した。

「コモリぃ……。こうなるのわかっていたの?」
女性を尾行していたひびきは、古森に尋ねる。
「いんや。わからなかったよ。でも、ハッキリわかったことがある」
「なにさ?」
「あの女性のご主人さんの心は、もうすでにあの女性にはないって事さ。だから、何度でも浮気するし、女性が駄目なら男性に走る」
「知ったような風な口をきいちゃって、もう」
古森はふうとため息をつくと、
「願い事って、ネガティブに願っちゃうと、ネガティブに物事が転がっちゃうんだよ。今回のように、『別れさせて』みたいなね。逆に、『私の方を見て』だったら、ここまでの悲惨な結果はならなかったかも。まあ、人々を救えなかったのはボクの不手際だけどさ」
「神様のくせに頼りないわね」
ひびきは笑う。
「そうさ……ボクは頼りないよ……どうやったってボクの力で人を救えないんだ……」
古森は悲しそうに目をつぶった。