私は古ぼけて暗い印象の「夢のレストラン」という看板がかかっているシケたレストランのドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
店内は薄暗い照明の真ん中に椅子が三つだけ並んでいるカウンター席しかなかった。奥にはコック帽にコックコートを着たこざっぱりとした国籍不明の若造が一人微笑んでいる。彼の短い黒髪は料理人として誠実さを感じさせた。
「ここにご予約なしに来られるなんて珍しいですね」
「どういうことだ?」
コックの意味深な言葉に私はふわふわとした不思議な気持ちになるが、頭を振りきり疑問を返す。
「ここは夢のレストランでして。知らない人にはなかなか訪れることが出来ないんですよ」
何を言っているんだ、このコックは。ワケの分からない不思議さに気分が悪くなる。コックはさっきから笑顔を一回も崩さない。この不気味な笑みに私は背筋が凍る。
突然、腹の音が鳴った。恥ずかしくてお腹を押さえる。
「そこまでお腹が減っていたんですね。では早速……」
コックはそう言って後ろにある銀色に光る冷蔵庫のドアに手をかける。
「ちょっと待ってくれ。私は今有り金がないんだ。高級なものを出さないでくれないか」
「はあ。一体なにかあったのでしょうか?」
「何かあったからこんなに薄汚れた服を着ているんだよ」
私は着ているコートについた黄砂を払い、椅子の背もたれにかけると、その席に座った。
「私は海産物の食品加工メーカーの社長だった。割と大きな会社でな。数年前までは業績良かったんだよ。でも、今は借金まみれ。高級住宅地の家が三つほど建てることが出来るほどの借金があるんだ」
「そうだったんですか。それは大変でしたね」
「てめえ、本当に大変だったって思っているのか?」
「いえ、全然」
私は辛気くさいことを言っているのに、コックはお気楽な顔でニコニコと笑う。
「嫁も役員も全員夜逃げした。つまり私一人でこの借金を返さねばならない。だから、最低限の金しか今持っていない。この食事をして、私は死のうと思っている。そうでもしないと社員に顔向けできないからな。でも金はないし、食い逃げをしようとも思わない。だからなるべく安いものが書かれているメニュー表をくれ」
そう言う私の前にコックは無言でお冷やを置いた。
「シケたこの店を選んだわけはな、シケてても残っているってことはそれなりにうまいって証拠だろう。私はうまいものを最後の晩餐として食べて死にたいだけなんだ」
私はそう言って、けだるさからテーブルに溶けるようにうつ伏せになる。
くやしい。私の人生は今日でおしまいにすると決めているのに、やはりどこか死にたくない自分がいる。
コックは無言で何かを切り始めた。軽やかなテンポで板を叩く音がする。注文もまだなのにもう作り始めているのか。気まぐれコックのなんとやらって本当にあるんだな。まあいい。うまいものさえ食えればそれだけでいい。
「自殺をとめないのか」
静かに私はコックに尋ねる。
「ええ。止めませんよ。本人の意志を尊重すべきだと思うので。確かに命は大事ですが、それをどう使うかは本人次第じゃあないですか?」
コックはこちらを全く見ずに答える。包丁の軽やかな音色だけが響く。
「そうか。精々うまいものを食わせてくれよ」
私は背もたれに寄りかかって大きく背伸びをした。椅子に座るのも久々だし、最期の椅子だから満喫しよう。
楽しげな音を立てながら、コックはフライパンで何かを炒めていた。
「では、ナポリタンです。スープもどうぞ。コーヒーは食後でいいでしょうか」
しばらくして、私の前にトマトケチャップで赤く染まったスパゲティが置かれた。輪切りのピーマンの緑が良いアクセントになっている。まあ、一見、極々普通のナポリタンだ。
「いただきます」
私は合掌して、フォークを手に取った。コックの方を見ると、何かすっている音がする。気にせず、私はナポリタンを口に入れた。
突然、私の頭と口の中はスパークした。トマトケチャップの甘酸っぱさとウィンナーのジューシーさとニンジンの甘みとピーマンのほろ苦さが丁度良く合わさってて……一言でいうなら、とてもおいしい。感動的で涙が出てしまう。
気づけば、皿はあっという間に空っぽになってしまった。最期の卵スープもやさしい味で身体が暖まった。満腹でなければもっと食べたいと思うほどおいしいナポリタンだった。
コーヒーの香ばしい香りがしてきた。
「食後のコーヒーですよ」
カウンターの上にはコーヒーカップがあった。なみなみとコーヒーが注がれている。
このコーヒーも今までにないぐらい美味しかった。苦みも酸味も程よくあって今まで飲んだことがない味だ。このコーヒーを飲んだらきっとブルーマウンテンも驚き逃げるだろう。
本当に満足できる最後の晩餐だった。こういう最期もありなんだろうな、と目から溢れ出てくる涙をボロボロのハンカチで拭く。こんなところで本当は終わりたくないのだが、仕方がない。
「満足して頂けたでしょうか?」
相変わらず満面の笑みを浮かべるコックに、
「ああ。満足したよ。夢のような食事だった。まさに夢のレストランだ。会計をしてくれ」
私は空っ風が吹く財布を取り出し、
「いくらだい?」
とコックに尋ねた。
その瞬間だった。
激しいノックの音と共に店のドアが開いた。
「社長! やっぱりここに居たんですね! ああ、良かった、死んでなくって」
そこに居たのは夜逃げしたはずの専務二人だった。ヨレヨレではあるものの、二人ともスーツを着てる。
「なんだ。死にゆく私を嗤いにきたのか?」
「社長、皮肉を言っている場合ではございません! 会社の買い手がついたのです。しかも金額が……」
専務の一人が言った金額は私の借金を返してもなお、まだ高級住宅が二軒買えるほどの金額だった。
「そんなバカな。どこがそんな……」
「どこがって最近台頭してきたあの会社ですよ。最近話題のバイオサイエンステクノロジーで有名な!」
もう一人の専務はそう言って手紙を取り出す。それを受け取り、書かれている内容を読んだ。なんと、最近話題のバイオ科学のメーカーが我が社の経営危機に瀕させた商品加工技術が欲しいから会社を打ってくれと書かれていたのだ。
「なんだって? 我が社の財政を圧迫させたあの新技術がまさか!」
驚く私に、
「そうなんです。我々の技術は無駄ではなかったんですよ。これで借金は返せます!」
二人の専務は声を揃えて、そう叫ぶ。
「そうか……。なら行くぞ!」
私は会計を済ませると、二人の部下を連れ、自社のビルへ向かった。
★
それからの毎日は凄く充実していた。っていっても、元の会社はたしかに買われてしまったのだが、私は借金を返して残った金を元手に新事業を興した。それが順調に回ったため、業績はうなぎ登り。一年で黒字決算できるほどの業績だった。私はどれだけ苦しい営業でもその先にある利益のことを考えたら、全くつらくなかった。
ただ、一つだけ心残りとしたら、買われた元の会社と商品加工技術だ。我々の威信を賭けて開発したのにもかかわらず、成果を出したのは我々ではなかったのはやっぱり悔しい。
ちゃんとあのとき、新技術の素晴らしさをこんな風に営業できていれば……。部下達をちゃんと面倒見ていれば……。こんな後悔ばかり、毎日する。
「たられば」で生活はできないのは分かっていても後悔していた。
★
今日は深夜まで仕事をしていた。なかなか仕事は終わらないものだ。まあ、それだけ需要があると思っておこう。
朝、キッチリと着ていた服は黄砂で薄汚れていた。明日でもクリーニングに出そう。
そんなとき、丁度通りかかったので「夢のレストラン」に寄ることにした。
「やあ、あんちゃん。元気か? 随分と遅くまで営業をしているんだな」
「ええ。おかげさまで」
ドアを開けると、前と全く変わらないどこの国にも居なさそうな顔のコックが笑っていた。
「おかげさまであんちゃんのナポリタンを食べて元気出て、死なずに済んだよ」
「いえ、ぼくはただ料理を提供しただけですよ」
私のおだてにコックは全く笑みを崩さない。
「さて、どうぞ」
コックはそう言って、ケチャップのスパゲティ――ナポリタンを私の前に置いた。
「どういうことだ? 私が来るのが分かっていたのか?」
私はフォークを手に取り、ナポリタンを食べ始めた。
「いえ、来るのは分かっておりませんでした。でも、ずっとここにいるじゃあないですか?」
コックの言葉と目の前にある空の皿を見て私は背筋が凍った。
そりゃあ、そうだ。
気がついてしまったのだ。
手に握っている涙で濡れたボロいハンカチ。
私は……「今」の私は……。
借金まみれで自殺しようとしていたという事に。
「だから言ったでしょう。ここは『夢のレストラン』です。夢は覚めるもの。いわゆるこれが胡蝶の夢ってやつですかね」
コックは鼻で笑うと、
「帰ってこなかったら覚めなかったかもしれませんね。何故ここに寄ったんですか」
と不気味に微笑む。
「さて、今は現実ですけど……。これからそのまま死にますか? それとも、もしあなたの見た夢が一つの可能性であると信じるのであれば、貴方の行動次第でまた別の可能性があるのではないのでしょうか」
落ち込む私にコックはそう言って、コーヒーのおかわりを注ぐ。何を言っているんだ。覚めなきゃ良かったよ。確かに悔しい思いはしたが、あんなに順調に新事業が進んでいた幸せな生活がまさか夢だったなんて! 怒りと悔しさのあまり唇を強くかむ。
そのときだった。
「社長! やっぱりここに居たんですね! ああ、良かった、死んでなくって」
ヨレヨレのスーツを着た専務の二人がやってきた。まさか……。
「社長、ニュースです。件の新技術を目当てに我が社を買いたいというところが現れたのです!」
「凄い値段ですよ! 借金が一気に返せます!」
騒ぐ二人の専務に私は、
「なあ、お前達。逃げようとした私を許してくれるならば、ここは私の手腕に任せてくれないか。そんな金額で買う技術を我が社が持っているのであれば、開発した我が社にしかできない事業もきっとあるはずだ」
私はそう言ってコックの方を見る。
「あんちゃん。会計するよ。そして、悪いが、もう二度と来ないよ。お前さんもそれを願ってくれ」
私の言葉にコックは何も言わなかったが、なんとなく満足そうな目をしていた気がした。