わたしはやっとのことで就職することができた。児童福祉施設だ。夫の転勤で前の職を辞めざる得なく、新天地では主婦への就職先はなかなかなかった。
仕事が見つかったといっても、福祉の資格は何もないので、これから取らなければいけない。しかし、就職できただけで万々歳だ。
深夜徘徊や虐待を受けている十代の子に声かけして、相談を受ける。家が大変そうだったら、この福祉施設で一時的に預かるという仕事である。
わたしも十代の頃はいわゆるヤングケアラーで、病気の祖父母の面倒を毎日みていた経験があった。ここに来る子供たちはそれ以上に大変な目に遭っているのだろう。そういう子供たちを救いたい。そういうのを少し盛って面接で話したら、その場で就職が決まった。
どんな子供たちがいるのかしら。
緊張しながら、月曜日を迎え、就職先へ初出勤した。
施設はかなり明るい場所だった。白を基調としたサッパリとした施設で、備品は整理整頓されている。床に落ちているものはチリ一つない。
本棚には教科書やドリル、図鑑から、小説、漫画まで揃っていた。清潔感があり、充実した施設だというのに、ここで預かっているという中学生・高校生と思われる子供たちの顔はどこか浮かない。
やっぱり家庭の事情が複雑だとツラいのかしら。そう思いながら、わたしは簡単に自己紹介をした。
事務作業を終え、子供たちがおのおののことをしている部屋へ向かった。靴を脱いだ瞬間、わたしの存在に気がついたまだ中一ぐらいの丸坊主の少年が、わたしに抱きついてきた。わたしも子供がいたら、これぐらいの子供がいるのかなと思いながら、その男の子を抱き寄せる。
「怖いよ……」
男の子は泣く。か弱い小さな声だ。子供らしい大きな泣き声ではない。なんとも言えない大人しい声なのだ。子供らしくさせてもらえなかったツラさがあったのかなと、そっとその少年の頭を撫でる。
ここでなら思い切り泣いてもいいのに。
わたしの心は苦しくなった。でもどう表現すればいいか分からず、ただただ、頭を優しく撫でるしかない。
「イヤだったのに……邪魔だからって……」
わたしは少年の顔を見た。本当に幼い。ゴールデンウィーク明け。中学校に上がったばかりだろうか。
そんな子供が深夜徘徊しなければいけないほど苦しい目に遭っているなんて。世の中を恨む。
「キミ。一体、何があったの?」
わたしは少年に尋ねた。
「さやかさん! そんなことをしてはいけませんよ。その子の心の傷を開くつもりですか?」
キツいパーマをかけ、シワを隠そうとして濃い化粧をしている、くぼんだ目をした管理者が、強い口調でわたしに注意してきた。
確かにそうだ。ここは、この少年を含む子供たちの心の傷を癒やす場所なのだ。再び傷つけることはナンセンス。あとで、管理者に直接聞けばいいだけの話だった。
「ごめんね」
わたしは少年から離れると、腰を落とし、目線を少年に合わせ、もう一度頭を撫でた。
少年の目はわたしに「何か」を訴えていた。
旦那が帰ってくる前に、夕食を作っているときも、やはり少年の「何か」を訴えかけていた目が気になってしまう。こんな考え事をしているうちに魚を焦がしてしまった。
焦げた魚は仕方がない。グリルの上の真っ黒な魚を見て、ため息をつく。
それよりも、本当にあの少年の目はものすごく気になる。
管理者が言うには「あの子はネグレクトを受けていた子。大事にされなかったの。だから家にいたくなくて、家出を繰り返していたの。母親からの愛情がもらえなかったのよ」とか言っていたけど、それとは何か違う何かを訴えていった。
でも、一体なんだろう……首をかしげながら、真っ黒になった魚を皿にのせた。
翌日のこと。
朝のミーティングのとき、事務室に見知らぬ女の子が混ざっていた。女の子といっても明らかに成人はしている。
管理者は近所の大学からボランティアが来てくれました、と紹介した。
「はじめまして。黒谷鏡子と申します。単位のためのボランティアですが、がんばっていきたいと思います。火曜日と金曜日の二日間だけですけど、よろしくお願いします」
鏡子は頭を下げた。パラパラと拍手が起きる。
すぐに顔をあげた鏡子はとても印象的で、わたしは思わず息を呑んだ。
鏡子の二重の目は深い青色――瑠璃色をしており、椿黒の髪はポニーテールにしていた。肌は人形のように白く……そして、まるでこの世に存在しているか分からないぐらいの美女だった。
実際に目の前にいるのだから、存在はしているのだろうけど……。でも女のわたしでもほれぼぼれしてしまうほどの美女だった。
早速子供たちのところへ行った鏡子だったが、どうやら子供に慣れていないらしく、どう接すればいいのか戸惑っているように見えた。
美人ではあるのだが、如何せん、表情筋が上手く使いこなせていないのか、どこかぎこちない。
そして、今一緒にいる高校生の女の子との会話が成り立っていない。鏡子が無表情なためか、メイクが派手で行動も派手な高校生の子は楽しそうに見えないのだ。あまり共通する話題がないようにも見える。どうやら、鏡子はメイクとかファッションにはあまり興味がないらしい。実際、今の服装はジーパンに「強冷房車」と書かれた白Tシャツという妙ちくりんな出で立ちだ。というか、どこで見つけてきたんだそのTシャツ。
こんなに美人なのにもったいないなと思う。まあ、逆に言えば、化粧しなくても美人というのはうらやましい限りだ。シワを隠すために厚化粧している管理者を見ていると、特に思う。
それにしても、ここまで会話が弾まないのに、何故ここへボランティアに来た……? と疑問の一つも投げたいところだが、それは本人しか知らないことだ。とりあえず、
「鏡子さん。もっと笑わなきゃ。笑顔が硬いわよ」
わたしは鏡子の肩を叩く。振り返った鏡子は、
「あまり笑顔が得意じゃないんですよね……。あはは……」
空笑いをする。
「鏡子さん! 大学生なら、中学校の数学なんて簡単でしょ。教えてよ!」
中学生の女の子が鏡子を呼ぶ。
「ボランティアなのに、わたくしが助けてもらってますね」
鏡子は、わたしと高校生の子に一礼すると、中学生の女の子の元へ行った。
午後から鏡子は大学の授業があるらしく、ありがとうございました、と一礼をして、彼女は帰っていった。
「あーやっと帰ったわ。ふぅ。使えない子が来たわね」
事務室で、管理者は思いきりため息をついた。
「一体、どういうことですか?」
わたしは尋ねる。
「あんな無愛想な子なんて、子供たちの教育によろしくないのよ。それに、私が指示を出した書類作成についても、文句言ってきたしね。『わたくしは子供たちと過ごすボランティアですので、それはお受けできません』だなんて。よく言えるわ」
他の職員も、そうねえ、もっといい子が来ればよかったのに。あんな気の利かない子がボランティアに来るなんて聞いていないわ。大学生という頭でっかちな子は必要ないのよ、とぶつぶつ文句をタラタラ流していた。
その言葉を聞いて、一瞬、反論しそうになったわたしがいた。
確かに鏡子は無愛想な大学生だ。会話もどこかチグハグで、堅苦しい。しかし、真面目なのだ。バカみたいに真面目なのだ。さっき会話が弾まなかった高校生の趣味の会話でさえ、真剣に聞いていた。高校生は最初はつまらなそうだったのだが、鏡子があまりに真剣に聞いているため、熱を帯びて話始めたのだ。鏡子さんのパーソナルカラーはきっと冬よね、とか、わたしにも分からない話を楽しげにしていたのだ。
鏡子は人の心を開かせる天才なのだろう。
それを見抜けない管理者が可哀想だなと思いながら、わたしは、ただうなずくしかなかった。
その翌日、水曜日のこと。
突然、経理の仕事を任された。経理担当が体調不良で辞めたためだ。わたし、表計算の関数もろくに使いこなせないのに……と思いながら、パソコンのキーボードで数字を叩く。
「むんん……?」
わたしは計算された数字を見て、目を疑った。
これ、予算が多すぎる気がする……。わたしたち職員の給与を差し引いても、国や区からお金をもらいすぎている感じがする。
どこか数字を打ち間違えたのかと、領収書やレシートを見返す。そして、職員の給与も確認する。
明らかに数字がおかしい。
そして、そのお金はどこへ?
焦ったわたしは、管理者の元に、印刷した表計算のデータを持っていった。
「この程度で、印刷したの? 印刷代、いくらかかると思っているよ? もったいない」
管理者は不機嫌そうにデータを見る。あまりの冷たく、他人事のような言葉に管理者の厚い化粧が憎らしく感じてくる。
「これでいいのよ。あなたは何も考えなくていいの。あなたは私の言うことを聞いていればいいのよ。分かる? 私の言うことは絶対なの」
いやらしく微笑む上げる管理者に、わたしは妙な胸騒ぎを覚えた。
本当はやってはいけないことなのだけど、その印刷したデータを家に持って帰った。そして、家のラップトップパソコンで自治体や国の助成金や補助金のサイトを見る。
明らかに数字がおかしい。今までの経理の人がおかしな計算をしていたから? 多分、そうに違いない。
旦那はワーカーホリックはやめておけよーとケラケラ笑う。そうだわね。本来なら家に帰ってまで、こんなことをする必要などないのだ。
明日、すべて計算し直そう。
そう思っていたのだが、その翌日だけで計算は終わらなかった。あまりに膨大な領収書やレシートの山なのだ。
先輩の職員全員に、
「前任者を疑っているの? イヤねえ」
と、冷たい目で見られた。その視線はするどい刃のごとく、わたしの胸を突き刺す。
「終わらない仕事をするなんて、最悪ね。本当に、前職は事務だったの?」
夕方、管理者にキツい口調で言われた。
「数字が合わないんですよ。この状態じゃ、助成金とか、色々、もらいすぎなんです。不正受給ってなって、閉鎖になったら、ここの子供たちはどうなっちゃうんですか?」
わたしは管理者に詰め寄る。
「何を言っているの? もらえるモノはもらった方がいいでしょ。その分、子供たち、職員たちのためになるのだし」
管理者の真っ赤なしわしわのくちびるは口角を上げる。その笑みはみっともなく、汚らしいモノだった。
「さっさと、あなたもお帰りなさい。サービス残業なんかさせないわよ。うちはホワイトなのだから」
わたしが使っていたパソコンのマウスを持つと、管理者はパソコンをシャットダウンさせた。
施設から出ようとすると、この前、泣きついてきた坊主頭の少年が、またわたしに抱きついてきた。
「どうしたの」
わたしは優しく少年の頭をなでる。
「本当は嫌だったんだ。髪を切るのを。でも、ちょっと言うことを聞かなかっただけで、こんな髪型にされちゃった」
わたしの心臓ははち切れそうになった。
どうしよう、これは……!
わたしは思い切り深呼吸をし、
「大丈夫だから。また生えてくるよ」
としか、少年に言えなかった。
帰宅する軽自動車の中で、夕方とはいえ、真夏なのに、わたしは恐ろしさで冷え切っていた。心は震え、縮みあがっていた。
「どうしよう。わたし、ここでやっていけるのかしら……」
そうつぶやいたとき、目の前に人がいることに気がついた。
慌てて急ブレーキをかける。助手席の鞄は慣性の法則に従い、ドサリと落ちる音がする。
どうやら、人には当たっていないようだ。
すんでの所だったらしい。
それでも、わたしの不注意だ。
「大丈夫ですか!」
急いで、車から降りる。
「ああ、さやかさんですか」
ヘッドライトに照らされていたのは、鏡子だった。鏡子は驚いた様子もなく、キョトンとした様子で、わたしを見る。
「大丈夫?」
わたしは鏡子の両腕を掴んで、思い切り振る。
動悸はまだ収まらない。
「大丈夫ですよ。そちらこそ、大丈夫なんですか? 何かひどく動揺されていますよ」
鏡子は今起きた自分自身の危険よりも、わたしの様子がおかしいことを指摘してきた。
「それは一体……どういう意味?」
わたしは大きく深呼吸をし、静かに……静かに鏡子に尋ねた。
「んとですね。さやかさんは今現在絶望しているって話ですよ」
鏡子はぎこちなく微笑んだ。ヘッドライトに照らされた白い肌と伴ってやや不気味だ。
「絶望……」
わたしはそう呟くしかなかった。これは絶望だ。絶望といったら、そうかもしれない。
突然、鏡子は大声で笑った。あまりに場違いで、一体、何事? と、びっくりしていると、
「わたくしたちは絶望を希望に変える存在です」
真顔に戻った鏡子はわたしの目を見た。鏡子の瑠璃色の目に心が吸い込まれそうになる。
「絶望を希望に変える存在……? 一体、どういう意味?」
「そのままの意味ですよ。あなたは、今絶望している。それは確実にわたくしは分かっています。でも、その理由はわかりません。話せますか? 話すだけでもすっきりすると、妹はよく言っています」
鏡子は今までにないたおやかな笑みを浮かばせていた。
「妹さんがいるのね。いい妹さんね」
わたしは大きく深呼吸をし、
「わかったわ。話すから、車に乗って。後ろが空いているわ」
こう言った。鏡子は頷くと、後部座席のドアを開けた。
最寄りのコンビニで、ペットボトルのルイボスを飲む鏡子に、
「ここの福祉事業所、不正受給しているみたいなの。明らかに国や区から補助金や助成金をもらいすぎているの。訴えたくても、わたしは就職して一週間経ってないし、そんなヤツが告発していいのかしらと思うし、それに、ここの事業所がなくなったら、来ている子供たちの居場所がなくなって苦しむわ。だから……どうすればいいか分からなくって」
わたしは抱えている絶望を吐き出した。
息が苦しくて、冷たいミネラルウォーターを首に当てた。少し呼吸が軽くなる。
「ご自身の絶望を客観視できるってすごいですね。ここまで言葉で言えるって、なかなかいませんよ」
鏡子は私の方を見て、口元に手をやった。目はどこか楽しげだ。
「明日、わたくし、ボランティアの日ですし、手伝えることがあれば、やりますよ。絶望を希望に変えてみせます。でも、さやかさん。それには、あなたの絶望を希望に変えたいという強い意志が必要ですからね」
わたしの両手を握った鏡子は、真剣な目――あの高校生と会話しているかのような真剣な目でわたしを見た。握った両手の力の強さは多分一生忘れないだろう。
怖いと思いながらも、翌日、職場に向かった。
すでに鏡子は来ていたようで、子供がだれもいないというのに、子供たちが集まる部屋にいた。本棚を見ている。
「どうしたの、鏡子ちゃん?」
「え……ああ。漫画のラインナップが……。あと図鑑も……」
鏡子は図鑑を一冊取り出すと、奥付を見せた。
「この科学図鑑、見た目はキレイですが、あまりに古いんですよ。ほら、出版された年が……。わたくしが生まれる前に出された本です。最新は今年出たはずなんです。そら、ガリレオ・ガリレイの時代のような、トンチキな時代ではありませんので、この時代と今とは科学の基本は変わりませんよ。でも、新しい元素も見つかっているんです。それが載ってない本に価値はあまりないと思うんです」
「はあ。詳しいのね」
「これでも理学部ですので」
鏡子は爽やかにわたしの言葉を流すと、図鑑を元の場所に戻す。それから、一冊の漫画を本棚から取り出した。華奢でキラキラした目をした女の子が描かれている。
「この漫画、古すぎません? もはや、古典レベルの漫画ですよ。確かに、棚には名作もありますが、大概は、昔流行しただけの漫画です。この漫画、読んだことありますけど、スケベなシーンが多すぎて、飽きました。恐らく、管理者の趣味でしょう。このようなエッチな恋愛モノばかりで、今の子が読みたくなるような、最近はやりの漫画とか置いていないって、一体誰のための施設なのでしょうか。これじゃ、あのケバい管理者のための漫画喫茶ですよ」
うっわ。辛口!
ここまで観察していなかった自分に辟易する。漫画を本棚に戻す鏡子を、わたしは、ただ見るしかない。
「あら、ここに何のようなの! まだ就業時間前よ。さっさと事務室に行きなさい!」
飛び込むように現れた管理者は鬼のような形相でわたしたちを見た。
「わかりました」
無愛想な顔に戻った鏡子は靴を履いた。
他の職員の目線がわたしと鏡子を貫く。ツラいが、鏡子がいるのだ。ここは耐えろ、さやか!
時間になり、子供たちが部屋に入ってきた。
「ねえ、さやかさん……」
火曜日、鏡子にメイクについて教えていた派手な高校生は何故か今日に限って、大人しい装いをしていた。
突然、何が起きたのだろう。
「ちょっと、アタシの部屋にきてくんない? ここじゃ話しにくいことがあってさ……」
本来なら、この子のプライバシーのため、わたしは子供が保護されている部屋に行く権限がない。しかし、この女の子の様子が、あまりに切羽詰まっているようにしか見えず、心苦しくなった。
これは聞くしかない。
「分かったわ。聞いたげる」
うなずいたわたしを見た女の子は少し口角を上げた。
明かりが点いた女の子の部屋もさっぱりしていた。
いや、サッパリしすぎている。
窓はないし、ベッドと小さな机のみの部屋なのだ。まるで牢屋だ。
女の子はその机にあった黒く小さなメイクボックスのファスナーを開けた。中身はない。
「管理者に捨てられちゃったの。他の子が欲しがるから、捨てなさいって。せっかくバイトして貯めて買ったのに……悲しいを通り越して、もう何もかも考えられない」
女の子の吐露にわたしは息を呑んだ。
なんてひどい!
このサッパリしすぎている部屋もだが、女の子の私物まで手を出すなんて!
わたしは、この感情のやり場が分からなくて、ただ強く拳を握る。
「これはあまりにひどいわ。でも、どうしてわたしに話してくれたの?」
「なんか他の職員と違うって思ったから。あの変人だけど、あの鏡子さんとも仲良さそうに見えたし、悪い人のはずがないって思ったの。だから……」
わたしは涙で前が見えなくなった。その涙を拭うと、
「ありがとう。今すぐは無理でも、どうにかしてみせるわ。悪いようには絶対にしない。約束する」
女の子に微笑んだ。無理矢理微笑んだので、鏡子みたいにぎこちないのかもしれないけど、がんばって微笑んだ。
高校生の女の子と一緒に戻ったとき、
「一体、どこに行っていたの!」
中学生とカードゲームをしていた管理者が急に立ち上がり、かなり強い口調で怒られた。
「この子が腹痛が強いってことで、一緒にトイレへ」
わたしはとっさの方便をつく。
「ウソをおっしゃい。トイレも行ったわ。あなたたちはいなかったわよ。もしかして、あなた、さやかさんを自分の部屋に行かせたんじゃないわよね?」
管理者は女の子をにらみつける。女の子の顔は顔面蒼白だ。わたしはどうにかこの場を切り抜こうと、脳内であれこれ考える。しかし、いい言い訳が思いつかない。思考が混乱する。
「ウソをついているのはどっちだって話ですよ」
中学生に勉強を教えていた鏡子は、静かに立ち上がった。
「何? 私に楯突く気? たかがボランティアのくせに」
管理者の責め立てるような声に、鏡子は悪魔のような高笑いをし始めた。
「ああ。馬脚を露わすって本当なんですねえ。その態度がすべてを表していますよ」
鏡子は自信たっぷりに、片笑みをする。
「何様よ!」
管理者の顔は真っ赤になっていた。
「このザマが何を言っているのですか?」
鏡子は真顔になった。そして、指を鳴らすと、
「闇の力を以て、天誅を下す! 汝等よ、真の姿を顕せ!」
謎の呪文を唱え、管理者や他の職員たちを指さした。
「い……一体、何よ……」
突然、謎の呪文を唱えたのだ。誰だって混乱する。実際、わたしも混乱した。
「あはは。何を言っているの?」
管理者は大声ではやし立てた。一方の鏡子の目はじっと管理者を見ている。表情は完全に「無」だ。
ふと、足下を見ると、通帳が落ちていた。それを拾い、名義を見る。管理者名義の通帳だ。
管理者はわたしが通帳を持っているのに気がついていないようで、
「バカじゃないの? そんなバカなコトをして、ただで済むと思っているの?」
ゲラゲラと鏡子をはやし立てている。周りの職員もそうだ。鏡子を指さし、ただ笑うだけだ。
一方、子供たちはおびえていた。今にも倒れそうな表情の子もいる。わたしは子供たちに、
「落ち着いて! さあ、深呼吸を!」
と、声かけをする。
そのときだった。
ピンポンと呼び鈴が鳴った。
「はい?」
管理者が気持ち悪い笑顔で表へ出る。他の職員も気持ち悪い笑みで鏡子を見つづけていた。
鏡子は無表情で腕を組んでいた。
「鏡子さん、大丈夫?」
高校生の女の子は涙を流しながら、鏡子に尋ねる。
「ここの本性を暴いただけですよ。あなたの絶望も希望に変わるはずです」
鏡子は爽やかな笑みでその女の子を見た。女の子もその笑顔につられるかのように笑う。
スーツを着た複数人の男女が子供たちが集まる部屋にをのぞきに来た。物静かで笑みをたたえているが、やや圧迫感を感じる雰囲気の人たちである。子供たちの様子をなめるように観察している。
「だ……誰?」
一人の職員はおびえながら聞いた。
「区の福祉課の者です」
入ってきた男性は名刺を職員に渡す。
「ここには子供たちがいますし、事務室の方へ」
管理者がそう言って、区役所の人を連れて行こうとした。
わたしは手元にある管理者名義の通帳があることを思い出した。中身は見ていない。でも、鏡子は「絶望を希望に変えるにはあなたの強い意志が必要だ」とも言っていた。ここでわたしは勇気を出して、意志を示さなければいけない。
わたしは慌てて、靴を履き、区役所の女性に通帳を静かに渡した。
「どうしたんですか、これ?」
「落ちていたんです。子供たちの部屋に」
通帳を受け取った区役所の女性は一礼すると、事務室へ消えていった。
他の職員たちは不安そうな表情をし、何も行動を起こそうとしていなかった。一番不安をかかえているのは子供たちなのに。
わたしと鏡子は子供たちを落ち着かせるために、体操をした。
「あ、もうこんな時間。わたくしは大学へ行きますね。あと、もうここには来ないつもりです」
鏡子は無愛想に荷物をまとめると、靴を履く。
「ねえ、鏡子さん。また、会える?」
高校生の女の子は、こわごわと聞く。
「さあ? それは運次第ですね」
鏡子は、振り返り、ウィンクすると、そよ風に舞う蝶のように静かに施設から出た。ギィイというドアが閉まる音が耳に残った。
それからの話をしよう。
わたしはここをすぐに辞めることにした。とはいっても、こんなドタバタしている状況で退職届など出せないので、無断欠勤なのだが。
判明したことをざっくり言うと、管理者は職員に支払うはずの助成金をインマイポケットしていた。ついでに子供たちのための補助金・助成金も不正に受給していたことが判明した。
このことで、最初は他の職員も被害者面していたのだが、職員による虐待の事実も判明した。
まあ、詐欺やらなんやらで刑事の裁判をするそうだ。
わたしも巻き込まれそうになったのだけど、入ったばかりだというのと、高校生の女の子の証言と内部告発ということで、なんとかなった。あの通帳は相当ブラックだったらしい。
もしかして、絶望を希望に変えるというのはこういうことだったのかしら。
そうぼんやり思いながら、夕焼けに染まる川縁を自転車でこいでいると、
「ああ。さやかさん。お元気ですか?」
リュックサックを担ぐ鏡子さんに後ろから声をかけられた。突然すぎて、自転車から落ちそうになる。
「ええ。まあ、それなりに」
なんとかバランスを戻しながら、返事をする。
「希望ってこういうことだったのね。あまりに唐突だったから、焦ったわよ。あの高校生と会うつもりはないの?」
「ええ。あの子は、もうすでに希望を持っています。それが分かっただけで十分ですよ。いずれ、わたくしの本性に気がつくと思いますしね」
鏡子はうっすらと笑み、ウィンクする。
「一体、どういう……?」
「さて、今、あなたは希望に満ちています。無職になったとは思いますが……。まあ、被害者なのですし、堂々と行きましょう!」
わたしの言葉は見事にスルーされた。謎の励ましをもらう。
「では、わたくしはこれで」
鏡子は一礼すると、わたしと逆方向へ歩いて行った。
瞬きすると、鏡子は消えていた。
二匹の蝶がひらひらと舞っていた。
福祉施設は閉所となった。こんなことはあってはいけないことなのだが、施設のあまりのひどさに閉鎖せざる得なかったからだ。
保護している子供たちは全員同じ施設に移ることになった。バラバラにならずに済んで良かったと思う。
最後、別れの挨拶だけと思い、引っ越しの手伝いのとき、高校生の女の子に声をかけた。
あのババア、私のメイクに嫉妬してたみたいと笑いながら、抱きついてきた。メイク道具を買い直したそうで、キレイに化粧していた。とてもかわいい。
「鏡子さんとあの後、会えた?」
女の子にわたしは尋ねる。
「え、誰、それ?」
女の子はわたしから離れ、不思議そうな目でわたしを見た。
「え?」
あれだけ仲良く話していた鏡子を覚えていない……?
鏡子の「わたくしの本性」ってこういうことなの?
腰が抜けて、へたり込んでしまった。
「さやかさん、大丈夫?」
女の子はケラケラ笑いながら、わたしの手を握る。
わたしはその手で立ち上がれたが、なんだか急に鏡子のことが怖くなった。
夕飯を作っているとき、何度も考えた。
黒谷鏡子は存在するのだろうか。
彼女が通う大学に問い合わせてみたが、個人情報なのでと断られた。ついでにボランティア活動という単位はないそうだ。
次のパート先にいた鏡子が通っていると言っていた大学の学生がいたが、鏡子なんて知らないと言っていた。
あれだけの美女が有名人じゃないはずがない。
では……。彼女は一体何者なのだ?
彼女は存在していたのか?
それとも……。
いや、これ以上は考えないでおこう。彼女は希望をわたしにくれた存在だ。
それだけで十分だ。
わたしはキレイに焼けた魚をグリルから皿に載せた