第四柱「エスプレッソ」

五月の明るい日差しが眩しい純喫茶「がじぇっと」の日曜日、
「どうしたのよ。そのギター」
ひびきは古森がアコースティックギターを抱えているのを見て驚いた。
「あ、これね。マスターが格好いいから、飾ろうともらってきたんだって。でも、どうせあるなら弾きたいな、って思って借りた。弦を張り終えたところ。今からチューニング」
たしかに周りを見るとさびた弦とラジオペンチが置いてある。古森は黒いメーターがある機械の電源を入れた。
「ちょっと、あんた。ギター、弾けるの?」
「ひびき、ちょっとうるさい。黙ってて」
ひびきの言葉を古森はめんどくさそうな声で制す。
ひびきはつまらなそうな顔で古森とギターを眺める。
古森はペグと言われているギターのねじを回し始めた。若干気の抜けた音とだしながら、次々と弦をはじいていく。
「よし出来た」
古森はそう言って、メーターの電源を落とした。そして、ジャンとすべて弦を解放させた状態で鳴らすと、
「んー何弾こうかなー」
古森はそう言って古ぼけたスコアブックをめくる。
「んーこれかなー。今のボクにぴったりだ」
古森はめくるのを止め、一通りそのページを目を通すと、弾き始めた。
ひびきは流れてくるそのメロディに
「『虹の彼方に』じゃないの。『今のボクにぴったり』って……あんた、オズの魔法使いを気取っているわけ?」
とつっこみながらも、古森の弾くギターの切ない音色に、耳を傾けていた。

店のドアの鈍い鈴の音が鳴った。古森は弾くのを止め、ギターを机に立てかけると、立ち上がる。
ひびきは音の鳴った方を見た。
「あの……今、やっています?」
見た人が思わず振り返ってしまうような二枚目がバリトンボイスを発していた。

「カフェラテありますか?」
と、ギリシャ像のように掘りが深く目が大きい男性はメニューを見ながら注文する。
「いえ。当店ではカフェラテはございません。カフェオレならあるのですが。すみません」
古森は軽く頭を下げる。
「あ、いや。牛乳入りのコーヒーって言う意味で言ったんだけど。カフェオレとカフェラテ、どう違いがあるか分からないなあ」
二枚目の男は左手をオーバーに上まであげると、そのまま下におろし、ほおづえをつき、尋ねた。
「カフェラテはドリップコーヒーではなく、エスプレッソです。ちなみに苦めとされているエスプレッソはドリップコーヒーより、揮発する分、カフェインが少ないと言われているんですよ」
古森はなめらかに話す。
「く……詳しいね、君」
「まあ……好きですから」
ひびきの方をちらりと見てから、古森は男に答える。
「んじゃあ、このカフェオレをいただこうか」
「はい。カフェオレ一つですね」
と、古森は細長いバインダーを片手にカウンターの中に入っていった。

古森がごりごりとコーヒー豆を挽いているとき、ひびきははす向かいに座っている二枚目と目が合った。
ひびきは客である男に軽く頭を下げる。それを見た男はにんまりと笑うと、ひびきの隣に移動し、座って、
「きみ、かわいいね」
ポニーテールを優しく触った。
ひびきは突然のことに顔を真っ赤にさせ、
「あ……いや……ありがとうございます……」
しどろもどろに答える。男は
「きみ、学校どこなの?」
とひびきにねっとりと訊く。
ひびきはいつもの威勢の良さはどこへ行ったのか、しおらしい小さな声で、
「け……敬貴高校……です……」
と返答する。
「へえ、敬貴かあ。賢いんだね!」
男は驚いた様子で、ひびきに顔を近づける。
「俺の名前は宮原ホウライっていうんだ。君の名前は?」
「し……篠座……ひ……ひびき……」
「へえ、ひびきちゃんっていうの! すてきな名前だ」
ホウライの言葉にひびきは自分の心臓の音は「がじぇっと」中に響き渡っているように感じた。

「あの……席はどちらに座られますか?」
古森の声でホウライは振り返り、
「ああ、席に戻るよ」
と言うと元いた席に戻った。
古森はお盆からコーヒーカップを机に置く。
「カフェオレになります」
彼の口調はいつもに比べ、やや素っ気なかった。

カフェオレを飲み終わったホウライは、会計を済ませると、
「んじゃね、ひびきちゃん。また来るよ」
と手を振り、店を後にした。

ホウライと入れ違いにマスターが店に入ってきた。
ひびきは
「おじさん! 今すごいイケメンが来たわ!」
と黄色い声を上げる。
「へ……へえ……」
マスターはひびきの勢いに戸惑う。
気持ちが収まらなかったのか、ひびきは買い物をしにでかけると言って、店を出た。
ひびきを見送った後、マスターは古森の姿を探す。
古森は不満げな顔でカウンターでカップを磨いていた。
「牛乳と小麦粉、買ってきたよ」
マスターはカウンター越しにいる古森に声をかける。
「……はい」
古森は不満げに返事した。マスターはいたずら心を起こし、
「古森くん、もしかして妬いてる?」
「茶化さないでください! マスターは関係ないですよ!」
古森は顔を赤らめ、反論した。

月曜日の夕方、ひびきが「がじぇっと」に入ると、ホウライがカフェオレを飲んで待っていた。
ホウライは手を振って、ひびきを呼ぶ。ひびきは顔を真っ赤にさせ、その場で直立不動になった。
「そこまで照れなくっていいのに」
ホウライは立ち上がると、ひびきの肩を回し、
「俺は君のことが好きだよ」
と耳元にささやく。
その言葉に、ひびきの顔は湯気が出るぐらい真っ赤になり、
「あ……あたしも……」
と言いかけたそのとき、カウンターの向こうで古森が思いきり咳払いをした。
我に返ったひびきは、ホウライから離れると、
「すみません……」
か細い声でこう言うと、ひびきは勢いよく「がじぇっと」から飛び出していった。

がじぇっとから飛び出たひびきは走りながら、自分ももしかしたらあの人が好きになっているかもしれないということと思うようになっていた。

その翌日の放課後、ひびきはまたホウライと会えるかなと期待しながら、「がじぇっと」に走って向かっていた。そのとき、ホウライと女性が楽しげに商店街を歩いているのを見てしまった。

「あら、篠座さん。一体どうしたのですか。そんなに気を落とされて」
ひびきは気を抜けた歩い方で「がじぇっと」に入ってくるのを、勉強しに来た泉川チハヤは首を傾げた。
ひびきは深くため息をつくと、脱力した状態で、
「ホウライさんに彼女がいた……」
と言って、崩れるように椅子に座る。
「ひびき、キミらしくないよ」
古森はひびきの前にお冷やを置きながら、苦笑いする。
古森の姿を見たひびきは、
「ねえ、コモリ! あたしの願いを叶えて! ホウライさんとあの女性を別れさせて、あたしと付き合うようにしてよ!」
そう叫んで、古森の肩をつかんだ。
古森は一瞬顔を歪ませた。それから深呼吸を三回したあと、右人差し指をひびきの顔の前に持ってきて、こう言った。
「キミはあと一回しか、願いを叶えられないことを知ってて、そういうことを言っているの?」
心の余裕がなくなりつつあるひびきは、
「そんなこと知ったことじゃないわ。ねえ、叶えてよ!」
そう泣き叫びだした。
古森はそんなひびきに動揺することもなく、穏やかな顔にして、
「ねえ、ひびき。優しい人はね、人のものを盗らないんだ。今のキミの願い事は、女性の幸せを盗ろうとしていることだということに気がついて欲しい」
古森はそう言うと、奥の台所へと消えていった。
ひびきは席に座ると、うつぶせに顔を伏せ、肩をふるわせる。すすり泣く声が「がじぇっと」中に響き渡る。
泉川はひびきのそばによって、
「なにがあったのですか?」
と尋ねた。
ひびきはハンカチをポケットから取り出し、目元を押さえると、
「あたし、好きだよって告白されたの。あたしも好きになったの。でも、その人、彼女がいたの」
泉川はひびきの隣に座る。そして、否定も肯定もせず、
「何事も落ち着いてからですよ」
ひびきを落ち着かせる。
「コモリさん、篠座さんの願い事があと一つしかない……って言っていたけど、どういうことなのかしら?」
泉川は息を吐き出すようにつぶやいた。

十数分後、古森はお盆に小さなコーヒーカップをのせて現れた。
「なにこれ」
「エスプレッソ」
鼻声のひびきの問いに古森は答える。
「エスプレッソマシンって、ここにあるんですか?」
泉川は訊く。
「いや。これ、マキネッタで淹れたんだ。とりあえず、ひびき、飲んでよ」
古森はひびきの前にエスプレッソを置く。
ひびきは鼻をすすると、コーヒーを含んだ。
「苦い」
「そりゃ、エスプレッソだもの。苦いさ」
ひびきの言葉に古森は笑う。
「ひびきは優しい人だ。それは自信を持って言える。だからこそ、ひびきが優しくない人にはなって欲しくないんだ。キミが、それでもどうしても……優しくない人間になりたい……つまりその願いを叶えたいのなら……」
古森は言葉を句切った後、顔を青ざめ、
「ボクは静かに絶望するだけだ」
と吐き捨てた。
ひびきは、何故古森がここまで自分を責めるのかが分からず、どう古森と話を続けたらいいのか悩んでいた。
鈍い鈴の音が鳴る。
「ただいま」
「お帰りなさい、マスター」
古森は帰ってきたマスターの買い物袋を持とうとする。
「荷物はいいよ、古森くん。休んでってー」
マスターの言葉に古森は
「では、お言葉に甘えて。ちょっと外出してきます」
古森はそう言うと、一度奥へと消える。数分経った後、エプロンを脱いだ姿で現れた。手には青い財布を持っている。
「では、行ってきます」
鈍い鈴の音が鳴った。

「エスプレッソじゃないか。古森くん、ほったらかしにしてたマキネッタを早速使ったんだね」
マスターはにこやかにひびきの前にあるエスプレッソを見る。
「マスター、マキネッタってなんですか? マシンがなくってもエスプレッソって作れるのですか?」
泉川はいくつも質問を並べる。
マスターはこう言った。
「マキネッタは直火型のエスプレッソマシンのことだよ。イタリアじゃポピュラーな機械でね。私も昔はねえ……。――ところで、ひびきちゃん、いったい何があったの? どうして泣いているのかい?」
マスターの疑問に
「好きな男性にカノジョがいたんですって」
と、簡単に泉川は解決する。
マスターはふむ、と相づちを打つと、荷物を持って台所へと消えていった。数分後、手ぶらもどってくると、ひびきの前の席に座り、こう楽しげな声でこう言った。
「ひびきちゃん。ここでクイズです」
「クイズ……?」
マスターは、まさに今何が起きたかわからない顔をしているひびきを尻目に、コーヒーカップを指さし、茶目っ気のある目で笑った。
「エスプレッソの意味は何でしょう?」
「意味……? 叔父さん、今そんなこと言われたって分からないわ」
ひびきはやや混乱しながら、返答する。
「普通一般的には『急行』と言う意味なんだけど、もう一つの意味があるんだ。それはね」
マスターは肘をつき、
「『あなただけのために』という意味があるだって」
と昔の恋愛話を話すごとく、せつない声で言った。
「『あなただけのために』……か……」
ひびきはマスターの言葉をリフレインする。
古森の言葉は、彼にとってもつらいことだったのではないか、と感じ、心が急に締め付けられるように苦しく感じてきた。心拍音が耳元でなっているかのように聞こえてくる。
「ごめん。ちょっと出かけてくる!」
ひびきは「がじぇっと」の鈍い鈴が鳴る扉を開け、外へ勢いよく出た。


「どしたの」
古森神社の境内で、古森はスポーツドリンクのペットボトルを片手に座っていた。
「あ……いや……うん……」
ひびきは緊張した面持ちで、古森を見る。
「どうしても叶えて欲しいの? あの願いを」
古森は悲しそうな顔をする。
その古森の表情を見たひびきは、頭を勢いよく下げ、
「ごめんなさい!」
と謝った。ポニーテールが勢いよく揺れる。
「べ……別にボクは謝って欲しいわけじゃないんだけど……。まあいいか」
古森は立ち上がると、ひびきの肩にそっと触れ、
「ボクは、ただ……君が使える願い事は一つしか残っていないから、それを大切に使って欲しかっただけだよ」
ひびきは顔を上げ、古森の顔を見た。
その笑顔は何故かひどく懐かしい気持ちにさせた。

その三日後のこと。
ひびきは学校帰り「がじぇっと」に入ると、テーブルと椅子は倒され、花瓶は割れ、床は濡れ、花は散っていた。目線を変えると、土埃と靴あとが大量についているホウライが四人の女性に囲まれていた。おのおの彼を罵倒している。
「やあ、ひびき。どうしたの?」
古森が奥の台所から出てきた。
「あ……どうしたの、この状況……?」
ひびきがうわずった震え声で、古森に尋ねる。
「あ……簡単に言うと、彼、四股してたんだってね。で、店で四人の彼女は大暴れしちゃったものだから、この惨劇。掃除する立場にもなって欲しいよ」
古森は眉をハの字にし、目をつむり、微笑むと、
「ま、警察を呼んだから、損害賠償とか難しいことはマスターにまかせるとして……」
と静かに言う。それからひびきの目をまっすぐに見ると、
「キミもあの中にはいるかい?」
と片笑みをした。
ひびきは赤面して、
「ば……ばか! もうこのことには触れないで!」
と勢いよく両手で顔を隠した。