ケース6「まんがの道程」

 夕焼けがロングシートを照らす。電車の中は都会を抜けたためか、人はまばらだ。
 わたしはぼうっと、その赤々とした夕焼けを見る。
 ああ、きれいだわ。
 真夏の太陽は人々に光を照らし、希望を与える。
 それにひきかえ、どうしてわたしはこんなに何もないのかしら。
 わたしは何もない。何者でもない。
 そんな事実を突きつけられている空っぽの心は、カラカラと切なく鳴っているようだ。
 そら、太陽と比べちゃいけないのは分かっている。あっちは恒星で、こっちは人間だ。
 月とすっぽん以上の差がある。
 わたしは大きくため息をつく。
 自宅の最寄り駅のアナウンスが鳴った。
 今日もだるい日だった。
 わたしは教科書がぱんぱんに詰まったトートバッグを持ち、電車を降りた。改札口からは吹く真夏の風は息苦しくさせる。
 見慣れた駅前のうるさい街並みは、ほっとするような、そうでないような。
 突然、一匹の蝶がひらひらと飛んでいるのが見えた。何故か気になって、その蝶を目で追いかける。蝶は太陽に向かって飛んでいった。
 蝶はいいな。
 わたしもこんな風に自由になりたい。

「今日、大学はどうだった?」
 夕飯の唐揚げを食べている最中、母さんはわたしの顔を見た。
「どうしてそんなことを聞くの?」
 わたしの声は震える。
「少し、顔色が悪いって思うだけ」
「そう……」
 わたしは箸を置いた。
「まだ何も食べていないじゃない! 最近、食欲がないみたいだけど、具合でも悪いの?」
 たしかに、ご飯はまだお茶碗の中に半分以上残っている。でも、そもそも食欲がないのだ。お母さんの唐揚げはめんつゆとニンニクがきいていて、美味しいのだけど、特にここ最近は特に砂を噛むような味気なさを感じる。
「ごめん。もう、お風呂に入るわ」
 わたしを止めようとする母さんを無視し、リビングから出た。
 ごめんなさい。本当にごめんなさい、お母さん。
 わたしは涙を流した。

 今日もみっちり眠たくなるような講義を受けた。
 夏休みの集中講義って、どうも頭がおかしくなる。
 九十分の講義でさえ、こんなに大変なのに、同じ教授の顔を連続して見続けなければいけないなんて、どうかしていると苦々しく思いながら、エレベーターに乗った。
 ゆっくりと講義室から出たので、他の学生はいないはずだった。
「あっ。わたくしも乗ります!」
 その声の方には、大きく膨れ上がったリュックを背負った白いTシャツにジーパン姿の女の子――同い年だろうか――が手を振っているのが見えた。
 急いでるわけでもないので、もちろん開くボタンを押す。
「ああ、ありがとうございます。助かりました」
 エレベーターに入ったリュックの女の子は、ゼイゼイを喘ぐ。
 わたしは女の子の顔を見た。
 息を呑むような美女だった。瑠璃色のアーモンドアイはあまりに美しく、本物の宝石のように見えた。とてもきらきらとしている。ポニーテールにした長い黒髪はつややかで、肌の色は透き通っている。まるでモデルか、女優か。それとも絵画から抜け出てきたのだろうか。そう表現してもオーバーではないぐらい美しい子だった。
 それにしても、「あぶよ」と達筆な文字で書かれたそのTシャツは一体なんなのだ? 謎だ。
「憲法を学ぶのに、こんな大量の教科書、必要なのでしょうかね」
 唐突に、女の子はわたしに微笑んだ。そんなキレイな目で見つめられると、どうにかなっちゃいそうだ。顔が熱くなるのを感じる。
「あなたも集中講義受けているの?」
 あまりの美女に動悸がする。わたしは無意識に視線をそらした。
「ええ。必須ではないとはいえ、父から取っておけと。面倒くさいですけどね。夏休みぐらい自由に遊ばせてほしいですよ」
 息が整ったらしい女の子は、エレベーターの液晶に表示される数字を見上げる。
「あの、明日提出の宿題、一応、自分でも解いたのですけど、答え、見せあいっこしませんか?」
「え、宿題なんて、出てたっけ?」
 突然の女の子の言葉にわたしはびっくりする。同時に、先生の言葉を思い出した。
 そうだわ。明日、提出の宿題があって、その上、その範囲内でテストがあるんだったわ!
「あ、その表情。どうやら、忘れていたようですね」
 女の子は茶目っ気のある表情でこちらを見た。わたしは全身が熱くなるのを感じた。多分、ゆでだこみたいに真っ赤だろうな。恥ずかしい。
「なら、ついでです。答えを見せますよ。覚えるだけですから、なんとかなりますって!」
 そのとき、ピンポンと一階につく音がした。
 
 わたしは女の子の言われるがまま、大学最寄りのファストフード店へ連れて行かれた。
 いつもなら、わたしたちと同じ大学の学生がたくさんいるのだけど、夏休みなので、残っているのはサークルやっているヤツか、同じように集中講義を受けているヤツしかいない。とは言っているけど、学生の母数が多いのだ。人はいる。
 かく言うわたしもよく友だちと来るけど、今回の集中講義を受けているのはわたしだけで、他のメンツは帰省している。ここ二週間は来ていなかった。
 女の子は、黒谷鏡子と名乗った。理学部らしい。ただ、最近、教授から、「キミは理学部に似合わない」と言われ、ショックを受けていると、ノートを破らんばかりに、怒っていた。
 それにしても、こんなにキレイな女の子が、他学部でもいたら、絶対話題になるはずだ。しかし、噂にも聞いたことがない。
 本人曰く、
「わたくしって忘れられやすいのですよ」
 らしいけど、それにしても程がある。
 まるで自分を人間扱いしていないように見えるのだ。
 なんというか……。自分自身を、人間の視界に入らない虫ケラのように、扱っているというか……。
 どう表現したら正確か、どんな言葉が的確か分からないのがもどかしい。人間とは違う存在のように見えるし、彼女自身もそんな風に自分を扱っているように見えた。
 それはともかく、宿題をうつさせてもらった。
 不気味な女の子ではあるけれど、恩人には変わりない。お礼を言うとそのままわかれた。
 あ、連絡先、聞くの、忘れた。
 まあ、いいや。明日になればまた会えるのだ。
 今夜はみっちり明日のテストに備えよう。
 ちなみに、話を聞いているうちに元気になったのか、ここのファストフード店で、大きなハンバーガーをペロリと平らげてしまった。きっと夕飯が食べられない。母さんに正直に話し、謝ろう。

 宿題も提出し、テストも空白を作らずにすんだ。
 明日でこの講義も終わりだ。一週間ってあっという間だ。
 我先に帰ろうと、講義室の出入口は混雑していた。
 電車の時間もまだなので、わたしはまだ席に座っていた。本音は無事テストをやり過ごしたことにホッとしている時間が欲しかっただけだ。
「テスト、大丈夫でしたか?」
 キラキラと瑠璃色が光るアーモンドアイがわたしを見つけた。逆光で姿は影だが、誰だかは分かる。
「鏡子さん、ありがとう。助かったわ」
「どういたしまして」
 鏡子はわたしの隣に、勢いよく座ると、
「昨日はごめんなさい。つい自分のことばかり話してしまっていました。本当なら、あなたの話をお聞きしたかったのに」
 怖いぐらい満面の笑みでわたしの顔を覗き込んだ。
「い……一体、どういうこと?」
 引きつったわたしの顔を見て、鏡子は我に返ったのか、イスに座り直した鏡子は、コホンと咳払いをする。そして、
「あなた、絶望していませんか? 例えば……『自分が何者であるか』とか?」
 謎かけをしている芸人のようなことを聞いてきた。
「一体、何?」
 いぶかしげに鏡子を見る。
「ですから。あなた、今、絶望してますよね? 何か話してみませんか? 多分、すっきりしますよ」
 絶望。そんな言葉を軽々しく使うなんて!
 普段ならキレないところで、わたしは怒り狂ってしまって、鏡子の胸ぐらを掴み、
「あんた! 『絶望』って言葉を軽々しく使わないでよ! あんたのわたしの何がわかる?」
 大声で叫んだ。机が軋む音がする。
 数人残っていた学生が、ざわめくのが聞こえた。
「理学部のあんたが、言葉の重みを理解していると、とても思えないわね。国文をなめないでよ!」
 鏡子は一瞬、暗い表情をしたかと思うと、胸ぐらを掴むわたしの腕を、力一杯掴み、
「ええ。それは誰よりも分かっております! 言葉というのは、人を切り刻むナイフです。ですが、わたくしは『絶望を希望に変える存在』。だから、わたくしはあなたに接触した。ご理解いただけます?」
 不敵な笑みを見せた。
 わたしは変なことを言い出した鏡子が恐ろしくなって、フラフラと椅子に座る。
「さて、場所を変えましょう。ここじゃ、うるさいですしね」
 周りを見渡す鏡子に、わたしは周囲の目も怖くなり、同意するしかなかった。

 ファストフード店の窓から見える外は真っ暗だった。星一つない曇天だ。
 雨が降りはじめた。だんだんと強くなっていき、土砂降りになった。まるで水圧の強いシャワーのようだ。
 昼は、曇り一つなく、むしろ日差しが強く暑いぐらいだったのに。
 わたしは鏡子の前で何もしゃべれなかった。何も話せないまま、一時間半経過し……そのまま、今の状況に至っている。
 客はまばらだった。
 いや、まばらどころか、ほぼ誰もいない。こんなこと、過去に一度もなかった。不思議なこともあるものね。
「絶望に対して、あなたは怒りを覚えた。それだけで、証拠は十分です。しかし、わたしは、その理由をあなたの口から聞きたいだけなのです」
 これで三度目だ。鏡子はまるで取り調べをしている刑事みたいで、わたしは萎縮する。心臓の鼓動は早くなってく。
 この女は何者だ?
 怖いけど、逃げ出せない。
 何故? 何故? 脳内でグルグルとその文字が回っている。
「わたくしから逃げだそうとすることは、つまり、絶望から逃げようとすること。絶望から希望を見つけるためには、その『絶望』を『言語化』しなくてはいけません。そのぶんじゃ、自分でも気がついていない絶望なのでしょうかね」
 鏡子はクスッと軽く笑うと、
「ちょっと強引ですが、あなたの本性を暴きますよ!」
 そう言って、指を鳴らし、
「闇の力を以て、汝、真の姿を顕せ!」
 不思議なおまじないを唱えたかと思うと、わたしを指さした。
 全身に電流が流れたような感覚に陥った。まるで、今まで見えていなかったものが見えたような衝撃だ。
 実際、そうだった。わたしは「現実」という「絶望」から目をそらしていたのだ。
「あ……。そうだ。わたしがやりたかったのは……」
 涙が溢れ出てきた。
 そのまま、意識は宙へ舞い上がった。

 高校生の時、わたしは漫画研究部だった。
 オタクだったからではない。純粋に漫画が書きたかったからだ。
 部員は、好きなキャラクターについて、色々推していたけど、わたしはわたしの話が書きたくて、所属していた。
 もちろん、わたしもに好きな漫画がある。その漫画にわたしはとても救われた。
 何度も読んでいくうちに、わたしも漫画を書きたい、それで食べていくことができればきっと幸せになるはずだ。
 そう思うようになっていった。
 画材を買うお金も勉強で時間もない中、三十六ページの漫画を三本書き上げ、他の部員に読んでもらった。
 みんな、わたしの漫画を鼻で笑った。
 そら、そうよね。下手な絵だし、キャラクターに個性はないし、ストーリー性も皆無だし。
 その程度の漫画だったのだろう。
 でもね。
 プライドだけは人一倍あった。
 面白い漫画を書こう、いや、わたしは面白い漫画を書いているという意気込みは、きっとプロに負けやしない。いや、プロ以上にあると自負していた。
 でも、わたしには勇気がなかった。
 雑誌に投稿する勇気が出なかった。
 これ以上、否定されるのが怖かったのだ。
 「わたしはつまらない物語しか書けないのだ」
 そう思い込んで、画材をすべて捨てた。プロットを書いたノートもネームを書いたノートもすべてすべて捨てた。
 そして、大学受験に命を注ぎ……。今、ここにいる。

「どうです? 自分の絶望と向き合うのは大変でしょう」
 鏡子の言葉で、わたしは自分が寝ていたことに気がついた。時計を見ると、一時間ほど寝ていたようだ。
 雨は止み、満天の星空が窓から見える。
「あなたの夢を少しのぞき見させていただきました。漫画家だったんでしたね。しかし、その道を自らから閉ざしました。それからですかね、あなたが自分自身が分からなくなったのは。ご存じの通り、『夢』は希望になりえますが、絶望になるときがあります。人がコントロールできない感情を『希望』とか『絶望』とか言うのでしょう。それは人智を超えた先の領域にあるものです。ですが」
 鏡子は大きく深呼吸をする。
「その絶望や希望ときちんと正しく向き合えば、その感情に対抗できる力、『意志』が生まれます。意思を持たずに、希望を持った結果、破滅に陥ったケースなんて、いくらでもあります。景気が上がると信じきって、下がっているのに投資し続けたり。そこに『意志』があると思いますか? わたくしにはあるとは、到底思えませんね。楽観主義にも程があります」
 静かに鏡子は言葉を続ける。
「『絶望』、もしくは『希望』を正確にとらえることができれば、コントロールできないこの二つの感情を生かすために、自分自身がどう生きれば良いか考えることができます。それこそが『意志』です」
「『意志』……ね」
 わたしは震える声で、返事をした。言葉に詰まり、何も言えない。
「あなたにとっては『絶望』をお見せしました。でも、わたくしが思うに、これは『希望』となり得ることだと思うのですよ。わたくしは『絶望を希望に変える存在』だと最初に申しましたけど、結局変えるのは、ご自身なのですよ。さて、どうしますか? まだ学生なのですよ。もっとモラトリアムを楽しみませんか?」
「モラトリアムね」
 わたしはおかしくなって、大きな声で笑ってしまった。
 今までの自分が薄っぺらく感じて、なんでこんなことで悩んでいたのだろうと、バカバカしくなっていった。
 悩みすぎて、霧の中に入り、自分自身が見えなくなっていたのだ。
 それだけだったのだ。
「そうよね。自分のすべてをコントロールするなんて、どだい無理な話だったのだわ。そんなのはどうでもよかった。でも、自分は自分しかいないのだし、それ以外の何者でもないわ。絶望? 希望? いいや、わたしはその先を行くわ。行ってやろうじゃないの!」
 わたしの言葉に鏡子は、
「えっ……。その先? ですか?」
 すっとんきょうな声を出す。
「ええ。漫画家になろうが、そんなの関係ないわ。わたしは『わたしがしたいこと』をする。それこそがわたしなの。わたしの存在意義そのものなの。わたしは漫画家をあきらめた。でも、それはこの絶望のきっかけに過ぎない。でも、あきらめたことで、この大学にいる。それこそが希望なの。高校時代、漫画家になるって決めたら、行けなかった道だから。だから」
 わたしは大きく息を吸い込むと、
「だから! 今だからこそ書ける漫画を書くわ。今のわたしにしか書けない漫画を。当時のわたしや、別の道を歩んでいたかもしれないわたしじゃ書けない漫画を。ありがとう、鏡子さん。気が晴れたわ」
 驚いた表情から、穏やかな表情に変わった鏡子は、
「それは良かったです」
 立ち上がり、一礼した。
 まばたきすると、ファストフード店に似合わない、蝶が舞っていた。
 その蝶は誰の目にもとまらず、虹の架かった空へ、すうっと外へ消えていった。

 それからの話をしよう。
 集中講義の単位は取ることができた。しかし、鏡子は探せども、大学のどこにも見当たらなかった。
 不思議でならなかったが、仕方がない。
 彼女も無事単位を取れたことを祈ろう。
 わたしは、貯金を全部使って、タブレットとペンを買い、残りの夏休みすべてを漫画執筆にあてた。
 完成した作品は、自画自賛ながら、なかなかのいい出来だった。今までできなかった投稿をしたら……! 小さな賞ではあるものの、受賞し、担当者がついた。
 そして今、人生の岐路に立っている。
 大学に残り、繰り返し漫画を投稿していくか、それとも、担当者と共に本誌掲載を目指すか。
 どちらに進もうが、後悔という「絶望」はあると思う。こうすれば良かった、ああすれば良かったと思うだろう。
 しかし、それは、どちらの「希望」を選んだかに過ぎない。
 鏡子と出会い、それから色々考えたわたしには、もう何も恐れることはない。
 自分の意志を大切にしよう。
 そう思って、その次の春、わたしは休学届を学生課に提出した。
 両親を説得するのは、大変だったけど、新人賞を受賞したという実績は大きかったらしく、わたしの意志を認めてくれた上、応援してくれることになった。
 一年間、みっちり漫画と向き合おう。
 芽は出なくてもいい。
 ただ、自分のしたいことに向き合えるだけでそれだけでいい。
 後悔はしない。
 それこそが、わたしの希望に対する答え、つまり『意志』なのだから。
 春の暖かな空気はまるでわたしを応援してくれているようだ。
 キャンパスを出ると、蝶がひらひらと飛んでいるのが見えた。
 何故か、それが鏡子が見送ってくれているように思えた。