ケース4「ぼくとお嬢のブルース」

 ああー。学校に行きたくないなあ。
 夏の空はとても明るいが、心はどんよりくもり空だ。
ぼくは、今、バスに乗って、郊外のショッピングモールへ向かっている。今日は平日なので、学生は誰ひとり乗っていない。いるのは、免許を返納したように見えるジジイやババアだけだ。
 それで、ぼくは高三。受験生だ。小柄なので、中学生とよく間違われるレベルの見た目だ。
 なので、ジジイババアの目はぼくの姿を突き刺さる。
 そりゃあ、そうだよ。高校生……ましてや、中学生みたいな子供が平日の昼間に、ショッピングモール行きのバスに乗っているんだから。普通は学校に行っていなきゃいけないんだ。
 でも、ぼくは学校に行きたくない。
 ショッピングモールにつき、行く度に必ず食べるアイスクリームを味わったあと、ゲームコーナーへ向かった。
 別にゲームをしにきたわけじゃない。
 学校から逃げてきただけだ。
 あんな魔の巣窟、行く価値なんてない。
 ゲームコーナは賑やかだ。ぼくもこんなに明るく騒げればいいのだろうけど、大人しいタイプ……どころか、暗い性格だ。
「あっ」
 そんなぼくの目に可愛い大きな大きなサメのぬいぐるみがとまった。クレーンゲームのガラスの向こうにある。ぼくは可愛いものに目がなく、それもまた、気持ち悪がられる一つの要因ではある。でも、可愛いものは可愛い。好きなものは好きだ。
 ぼくはコインを入れ、楽しげな音楽と共に動くクレーンを動かした。
 そうそう簡単に取れるものではない。これ以上使ったら、今月はもう何も買えないレベルまでお金を使ってしまった。
 ため息をついた。
 ああ、なんてぼくは愚かなのだろう!
「お、そのサメが取りたいのか、お前?」
 鈴のような声がした。しかし、口調はヤクザみたいだ。
 振り返ると、絶世の美女がそこにいた。
 まつげは長く、二重の瑠璃色の目、Tシャツとジーパンというラフな格好ではあるけど、びっくりするほどスタイルの良いお姉さんだ。黒く長い髪はポニーテールにしていて、うなじにドキリとする。
 「8逃げ」というTシャツの文字がかなり気になるけど。どこに売っているのだろう、それ。
 ともかく、突然、あまりにキレイなお姉さんがぼくに話しかけてきたことにびっくりして、へたり込む。
「なんだ、人をお化け扱いして。まあ、その類いではあるかもしれないがな」
 お姉さんはコインを入れ、クレーンゲームをはじめた。さっきと同じ楽しげな音が鳴る。
「ほらよ。やるから、受け取れ」
 軽々とサメのぬいぐるみを取ったお姉さんは、やっとこさ立ち上がれたぼくに渡す。
 ぼくは思い切りそのぬいぐるみを抱きしめた。ああ、やわらかい。可愛い。
「ふふん。どんなものだろ?」
 お姉さんはゲラゲラと笑う。この口調のせいで残念なお姉さんだが、ぬいぐるみを取ってくれたのには変わりない。
「お姉さん、ありがとう……ございます」
 ぼくは頭を下げた。
「いいって。平日の昼間にガキがいたから、気になっただけだ」
 お姉さんは再びゲラゲラ笑う。
「キミ! やっぱりここにいたのね!」
 声のする方から、生活指導の先生が来た。気持ち悪い太り方をしているババアだ。ここは不良たちのたまり場でもあったのか。あーあ。真面目さだけが取り柄のぼくなのに、これで不良の仲間入りか。
「学校に行かずに、何をやっているの! サメのぬいぐるみなんか取って!」
 先生はぬいぐるみを取りあげようとした。香水の匂いで吐き気がする。
 お姉さんは先生の手を掴み、
「これは、あたしがこのガキにやったもんだ。あんたが取りあげる筋合いなんてねえよ」
 と、恐ろしい顔でにらみつけた。
「なっ。なによ。子供をあんたみたいな不良から守るために来ているのよ。さっさとどこかへ行きなさい!」
 一瞬、先生はひるんだが、お姉さんにつばが飛ぶレベルで叫ぶ。
「なあ、勉強を教えるだけなら、教科書だけで十分なんだよ。このガキが学校に行っていないワケがあるって、理解できないのか?」
 お姉さんは邪悪な目つきで先生を見る。ちょっと小馬鹿にしているようにも見える。
「知ったことじゃないわよ。この不良! さあ。ぬいぐるみはこの女に返しなさい。学校に行くわよ」
 先生はぼくからサメのぬいぐるみを取りあげると、チンピラなお姉さんにそれを押しつけた。あきれかえった表情でお姉さんはぬいぐるみを受け取った。
 そして、もう何も言ってこなかった。

 今、ぼくは先生の車に乗っている。学校の相談室という名前の説教部屋に直行だそうだ。
 あんなチンピラがいるから不良が増えるのよ、と不満げにブツブツつぶやきながら、先生は運転している。
 確かにお姉さんはチンピラみたいだ。しかし、社会を乱す悪い人には思えなかった。むしろ、ぼくに寄り添ってくれていたような気もするぐらいだ。
 あんなに優しい大人は見たことがない。みんなあんな大人だったらいいのに。
 車の窓に映るぼく自身の顔を見て、これから訪れる説教という地獄に戦々恐々としていた。

 説教は一時間にも及んだ。
 ぼくはどうしてゲームコーナーにいたのか、くどくど聞かれたが、答えなかった。
 いや、答えられなかったが正解だ。
 もし、答えたとしても、「言い訳」として扱われるに違いない。
 だから、ぼくは、じっと、先生の説教に耐えた。
 解放されたのは夕方だった。まだ日は昇っているが、これからだんだん暗くなるだろう。
 ぼくはため息をついた。
 帰りたくないなあ。きっと母さんにも怒られる。
 そんな恐怖と闘いながら、ぼくは玄関の戸を開けた。

 父さんからも一時間説教を喰らった。これから受験なのに、何をさぼっているのだ、勉強は大事なんだぞ! と。
 ぼくだって、良い大学に行って、たくさん勉強したい。
 ただ、学校に行きたくないだけなんだ。
 ぼくはそれを主張したかったが、結局、言い出す勇気も出ず、そのまま夕食も食べず、部屋に戻り、ふて寝した。

 翌日、重い身体を起こしながら、けたたましくなるスマホの目覚ましを切った。
 昨日の事があって、ますます行きたくなくなった。
 母さんがぼくの部屋のドアを何度か叩き、大丈夫? と、何度も声をかけてくる。ぼくは生返事で返す。こんな様子に、とうとうあきれたのか、足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
 午前十時になった。母さんはパートに出かけたようだ。
 今日こそ、先生に捕まらないように、人通りの少ない場所へ行こう。
 ということで、近所すぎて、いつもなら入りにくい喫茶店に入ってみた。
 外と違って、中はすごく涼しい。そして、少し薄暗く、たばこのけむりの匂いがする。完全に大人の世界だ。
 この値段で漫画雑誌一冊買えるのに……と思いながら、ブレンドコーヒーを注文する。
 若いマスターは優しい目でぼくの注文を受けると、それ以上、何も聞かずに、奥のキッチンへ行った。
 ぼくも早く大人になって、こういう場所で、たばこを吸いながら、のんびりと過ごしたい。
 そのためには良い大学に行きたいのに。
 でも、学校には行きたくない。
 コーヒーが来るまで、ぼくは「どうしてこんなことになってしまったのか」をじっと考えた。
 しかし、答えは全く出なかった。唯一、分かったことは……。まわりの大人は全員、「あいつ」の味方ということだけだ。
 大人になれば、みんな、ぼくの話を真剣に聞いてくれるだろうか。
 信じてくれるだろうか。
 優しげなマスターが、ブレンドです、と言って、コーヒーを持ってきた。
 一口飲む。熱い。少し冷ましてから、ちびっと飲む。苦みがあまりない、サッパリとした味だ。
 おいしい。これがプロの味ってわけか。インスタントとは違う……のかな。
 さて、これからどうしようか。
 とりあえず、ここで午前中はつぶそう。
 それから、ありったけの勇気を出して、学校に行こう。
 今だけ、少し早い大人の気分を味わおう。

 昼休みの時間にこっそり登校したつもりだったが、体育の男先生に捕まった。
 何かつらいことあるかもしれないが、男なんだからしっかりしろ、と先生に頭をくしゃくしゃと撫でられる。
 子供扱いはやめてくれ。
 ぼくは中坊なんかじゃない。
 高校生なんだ。
 大人なら、ジャージで過ごすな。
 なんとか先生から逃げたぼくは教室に入った。これこそ、こっそり入ったつもりだったが、すぐにバレてしまった。「あいつ」に。
「あら。とうとう不良になってしまったんですね。最低です」
 眼鏡をかけた女子が黒いおかっぱ頭をかきあげた。彼女はこのクラスの委員長。
 ぼくはこいつをはじめ、クラスの女子全員を敵に回してしまった。
「クラス委員長、やっちゃってもいい? 昨日さ、こいつが来なかったせいでムシャクシャがたまっててさ」
 同じく眼鏡をかけたショートカットの女子は、言葉の過激さと違って、穏やかに笑う。
 それにつられて、周りの大人しそうに見える女子たちも笑う。
 ああ、また始まるのか。
 ぼくが学校から逃げている理由。
 それは、クラス委員長を中心とした暴力だ。
 女子が男子に殴るから、たいしたケガにならない。結果、バレない。
 しかし、痛いものは痛い。
 ぼくはこれから全身に走る激痛に耐えようと、身構えた。

「あんた、アホなのではなくて? 殴り返せばいいのに」
 昇降口で、あだ名が「お嬢」と呼ばれる女子が話しかけてきた。少し茶髪かかった髪を一本にした三つ編みが軽やかに揺れる。事実、良いところのお嬢さまで、この街のフィクサーの孫娘という噂だ。とても可愛らしく、クラスで一番モテる女の子である。
 性格がややキツいので、ぼくはちょっと苦手だけど。
「お嬢、ぼくに構ってるヒマなんてあるのかよ」
 殴られた首筋をさする。
「あるわよ。あんな不条理なの、見てられませんわ。殴り返せばいいだけなのでは?」
 お嬢は靴を取り出す。
「そんなことできるはずないだろう? 普通の女子が男子に暴力で勝てないのは事実なのだから。ぼくに構わないでよ。お嬢までいじめられる」
 その言葉を聞いたお嬢は、
「あら、気にしてくださるのね。あはは。ありがとう。その言葉、ありがたく頂戴するわね。ただ言っておくわよ。誰も味方がいないって思わないコトですわよ」
 靴を履いたお嬢は、ぼくに微笑みながら、手を振ると、校門の前に止まっていた車に乗り込んだ。
 

 時計の上では夕方だというのに、まだ空は明るい。しかも、暑い。夏ってこういうのだからキライなんだ。
 未だジンジンと痛む首筋がイヤになる。
「おい。そこのガキ」
 鈴のようなチンピラの声がした。
 振り返ると、昨日のサメのぬいぐるみを持ったお姉さんが微笑みながら、手を振っていた。
「えっ」
「え、じゃないだろ。忘れ物、届けに来た。んで、あんた、絶望しているように見えるが、あたしで良ければ、聞くぜ。話してみな」
 ぼくにぬいぐるみを押しつけると、お姉さんは肩を優しく叩く。黒いポニーテールが揺れ、ぼくの心臓はドキリと跳ねる。
 服装は白い文字で「838861」と書かれた黒いTシャツにジーパンだった。その変なTシャツはどこに売っているのだろうか。ぼくもそのシリーズが欲しくなってきた。
「あんたに話すコトなんてないよ」
 ぼくはお姉さんの手を払う。それより、そのTシャツが売っているお店を知りたい。
「ん? じゃあ、なぜ、あのとき、そのぬいぐるみを取ろうとした? そして、その首後ろの青たんはどこで作ったんだ? ただ転んだだけじゃ、そんなところにケガなんてできねえよ」
 お姉さんの言葉にぼくの心臓は止まったかと思った。
 瑠璃色の瞳にぼくのすべてを見透かされているような感覚になり、恐ろしさを感じる。
 動悸が激しくなる。
 お姉さんは何者だ?
 化物か?
「ビビらなくていいぜ。あんたがイヤだというなら、もう二度と、誰かに殴られたかどうかはあたしからは聞かねえ。ただ、ツラいという自分の気持ちに正直にならなきゃいけないぞ。赤の他人にしか話せないこともあるだろうって思って、話しかけただけだからな。話す気分にならないのなら、それでいい」
 今の今まで恐怖の対象だったのにも関わらず、お姉さんのこの言葉に、何かが弾けた。
 そうだ。話せば楽になるかもしれない。
 この人は優しい人だ。化物かもしれないけど、この人なら信頼出来そうというぼくの第六感を信じよう。
「話したいこと、あります」
 ぼくはいつの間にか溢れていた涙をこらえながら、小さくうなずいた。サメのぬいぐるみを強く抱きしめる。
「ふうん。そんな気分になったのか。んじゃ、場所を変えようぜ。良いところがある」

「こんなところに神社があるなんて……」
 ぼくはびっくりした。黙ってついてこいと言うお姉さんの言うとおりについてきたら……!
 なんということか!
 近所の新興住宅地にこんなキレイな神社があるとは!
 とても小さいが、丁寧に整備されている。
 周りの木々もキレイで、花々も咲いている。木陰があるせいか、少し涼しい。
 ご神木と思われる大きな木はさわさわと笑っているように見えた。
「最近、直したらしいぜ。ちょっと、神様とあたし……じゃ、月とすっぽんになるが、話してみたらどうだ?」
 お姉さんは境内に座る。
 行儀が悪いが、神様にも話を聞いてもらえるかも、と思いながら、ぼくもお姉さんの隣に座る。
「今年の春、クラス委員長に刃向かったら、毎日、殴られるようになったんだ。ぼくとしたら、ただ素直に思ったことを話しただけなのだけどね。刃向かったつもりはないんだ。クラスの仕事が男子のほうが多かったから、少し減らしてくれってお願いしただけなんだよ」
「ふうん」
 聞いてるような、聞いていないような、そんな生返事をお姉さんはする。
「重たい荷物を持つとかだけなら分かるよ。体力自慢の男子ならいくらでもいるんだから。だけど、黒板消しとか床のぞうきんがけとか、誰でもできることでも、男子にやらせようとするんだ。女子は本棚や戸棚のから拭きだけ。それは分担にならないでしょ、って指摘しただけなんだ。ただ……それだけなんだ。それだけで……ぼくは毎日殴られる。女性に優しくないって。チビって悪口言われる。見た目も子供っぽいからキライなんだ」
 ぼくは首筋をさする。痛い。青たんができているというお姉さんが言っている意味がわかる。
「ただ暴力に耐え続けただけなのか? 言い返したり、先公にチクったりしなかったのか?」
 お姉さんはポケットからハッカのラムネを出し、かじった。ぼくにも渡そうとしたが、あいにく苦手なので、首を横に振り、受け取らなかった。
「うん……。女子が悪いことをするはずがないって、先生全員が思っているんだ。それに、殴り返したらさ、これこそ不良の仲間入りだよ。内申書が滅茶苦茶になって、良い大学にいけなくなる。こんな不幸、他の誰もないと思うよ」
 ハッカのラムネを食べ終わったお姉さんは、大きく息を吸うと、
「まあ、そうだよなあ……。ケンカの……いや、護身術の一つや二つ、教えてやろうかと思ったが、確かにそれじゃ、マジでお前が悪役になりかねないよな。男女ってここに大きな差があるのは事実だ」
 ご神木をじいっとにらみつける。
「お姉さんはケンカ強いの?」
 ぼくは思わずサメのぬいぐるみをぎゅっと握りしめる。
「まあな。こんななりだから、変なヤツが自然と関わってくる。あたしも自分の容姿がつくづくキライだぜ。基本的には反撃でしか使わないから、安心してくれ。大学に入ってからの警察沙汰は三回のみだ」
 このお姉さんの乱暴な様子ならお世話になっていてもおかしくはない……が、見た目だけで絡まれて、警察に行くなんて、大人って怖いな……と思った。こんなにキレイなお姉さんも見た目で苦労しているのかと思うと、世の中はなんてグシャグシャしているのだろう。
 世間に不条理さを感じ、サメのぬいぐるみを優しく撫でる。
「な、お前? 自分で自分の悩みが言えるって、賢い証拠だぞ。普通はこんなに理論的に言えないぜ。暴力をふるわないでおこうとする判断も賢い証拠だ。もっと自分に自信を持てばいいんじゃねえの?」
 お姉さんはぼくの顔を見た。その目は夜空のようで、キラキラとした星のような輝きに吸い込まれそうになる。
 ぼくは自分をなんとか保ち、
「ぼくが賢いだって? 冗談はやめてよ」
 お姉さんをにらんだ。
「冗談じゃなかったら、わざわざ、お前に会いにこねえよ。あたしはあんたにぬいぐるみだけの用事で来たわけじゃねえ」
「ぬいぐるみの他になにかあるの?」
「ああ。ぬいぐるみの他にあるんだよ」
 お姉さんはニタリと笑った。少し邪悪に見える。
「あんたは、自分が不幸だと言ったな。だが、それは不幸ではなく、ただの『絶望』だ。不幸と絶望は違う。お前は確かに子供っぽい顔つきという点では、不幸かもしれないが、運命というのは不思議なもんで、その不幸が幸福を招くことがある。実際、幸福は目の前にあると思うぜ。例えば、そんな幼い顔のお前に一目惚れしたヤツとか」
「本当に冗談はやめてよ」
「冗談なんて、一度も言ってないんだけどな。蓼食う虫も好き好きだぜ?」
 ぼくの自虐にお姉さんはケラケラ笑う。
 こんなぼくのことが好きなヤツなんているはずないのに。ふざけているのかな。そんな風には見えないけど……。
 お姉さんは再びご神木をにらみつけ、
「あたしは、お前が受けている『絶望』を『希望』として見せたいから、こうしてもう一度会いにきた。お前はこの『絶望』を『希望』に変えたいか? 最初にその意志を聞きたい。『希望』によって、あんたが今受けている暴力を解決できるかは分からない。ただ、絶望を希望に変えたいのなら、手伝ってやるぜ」
 それから、ぼくに爽やかに笑った。さっきの邪悪さはどこにもない。
 この人は純粋にぼくを助けようとしている。
「て……手伝ってください。ぼくに希望を見せてください」
 お姉さんは大きく笑うと、
「んじゃ、希望に変えるための勇気を溜めておけ。そして、信じる意志を大事にしろ。その意志が一番大事なんだからな。あたしが手伝っても、お前の信じる勇気、意志がなければ、絶望を希望に変えられない。つまり、すべてはお前次第ってわけだ」
 ぼくに指さした。
「じゃあな。ガンバレよ」
 お姉さんは境内から立ち上がり、歩き始めた。
 瞬きすると、お姉さんは消えた。
 まさか、お姉さんは、ここの神様……じゃないよね……?
 背中が少し凍った。
「それにしても、勇気を持てって言われてもなあ……」
 ぼくも境内から立ち上がる。
 お賽銭はないけど、境内の前に立ち、心の中で、ありがとうございました、とサメのぬいぐるみを抱えながら、神様に頭をさげた。
 そして、顔を上げると、一匹の蝶が花の蜜を吸っているのが見えた。

 翌朝。
 元気よく……ではないけど、とりあえず登校した。
 教室に入ると、女子をはじめ、男子からも冷たい視線が刺さる。
 誰かと交わるなんて、もう無理なんだろうな、と思っているとき、
「ねえ、ちょっと? 提出しなきゃいけない宿題、あなただけ忘れてますわよ。さっさとプリントをお出しになって?」
 後ろからヌッとお嬢が話しかけてきた。
「あ……ああ。わかった。ありがとう」
 ぼくは慌ててファイルに挟んでいた数学のプリントを取り出す。
「差し出された手を振り払うのだけは危険ですわよ」
 お嬢はぼくの耳元でそっと呟いた。
 言っている意味が分からない。
「お嬢! すべてプリントが集まったのなら、先生のところに持ってきて!」
 今の様子を見ていたらしい担任の先生はお嬢を呼ぶ。
「はい、ただいま」
 お嬢は軽やかに教壇に向かっていった。

 お昼休み。お腹がすいた。もうペコペコだ。
 自分の席で母さんが作ってくれた弁当を開く。ああ見えても、とても栄養バランスを考えてくれているのが分かる。
 箸を持ち、いただきます、と言ったときだった。
 突然、目の前に現れたクラス委員長がバケツの水をぼくにぶっかけてきた。
 臭い。
 まるでぞうきんを洗った後の水だ。
「あらら。男子が掃除をちゃんとしてくれないせいで、か弱い女の子がバケツの水を捨てようとしたら、手がすべっちゃったわ。でも、掃除の水を捨てない男子が悪いのよ。ね? みんなそうでしょ」
 クラス委員長は教室にいるクラスメイト全員に笑う。
「そうよ、力仕事を女子に押しつけるのが悪いのよ」
「男子がちゃんとしないせいで、男であるあなたがひどい目にあったのよ。ちゃんとしておけばよかったのに」
 女子たちは口々に言う。
 男子は素知らぬ素振りだ。誰もみんな味方になってくれない。
 ああ、この状態だと昼飯は抜きか。
 とりあえず、ずぶ濡れになった制服から、体操着に着替えよう。

 誰もいない保健室で制服を脱いでいると、ベッドの仕切りのカーテンが突然開いた。
 ぼくはパンツ一枚で、臭いのに一体誰だ? と振り返る。
 お嬢がいた。
「ここまで来て、ぼくを笑いにきたの? ほら、笑えばいいさ。臭いだろう?」
 これほど、ひどい目に遭うと自虐的にもなる。
「ここまで追いかけてきて、あなたを笑うヒマなんてあたくしにあると思いまして? ほら、これで身体をふきなさい」
 お嬢はポケットからウエットティッシュの袋を取り出した。一枚がとても大きいタイプのものだ。これだと、身体全体ふけそうだ。
「あ……ありがとう」
「昼ご飯、とりあえずサンドウィッチとカフェオレがあるから、それを食べなさい」
 お嬢はベッドにたまごサンドとペットボトルを置くと、カーテンを引いた。さあっと音が鳴る。
「え……。キミが買ってきてくれたの?」
「いいえ。とてもキレイな女性が、あなたが渡したい人に渡しなさいって、校門前で渡してきたのよ。ねえ、あなたが受けているイジメ、あたくし、見てられませんわ。プリントだって、クラス委員長はあなたなしで、先生に提出しろってうるさかったのですよ。でも、それじゃ公平ではなくて? 卑怯極まりないですわ」
 もしかして、あのお姉さんが……? と驚くが、
「キミ、助けてくれたこと、今回がはじめてじゃないか。今まで無視しておいて、何様だ」
 拭き足りないところを拭くため、二枚目のウエットティッシュを取り出しながら、ぼくは怒りを思わずぶつける。ああ、お嬢がせっかくくれたウエットティッシュなのに。優しくしてくれた人に、なんて酷い言葉を言ってしまったのだろう! ぼくは、なんて最低なんだ!
「そうですわね。あなたが怒っても仕方のないことですわ。本当に……本当にあたくしは、ずっと見逃したくなかった。だけれども、今までどうすればいいか分からなかっただけですの。でも、今日、このサンドウィッチをくださった女性が、行動を起こさないと信じてほしい人に信じてもらえない、そうなれば、あんたまで絶望してしまう、とアドバイスしてくださってね。ですから、勇気を持って、今、ここにいるんですの。ですから、さっき、言いましたけど、あたくしが差し出した手を振り払ってほしくないんですの。つまり……。あたくしはあなたと一緒に戦うと言っているのですわ」
 ぼくの自己嫌悪を知ってか知らずか、カーテン越しにお嬢は一気に言った。それから、ため息をつき、
「でも……あたくしは女。信じてくださらなくて当然ですわよね」
 そう呟いた。その声は少し涙ぐんでいる。
 無事、キレイな体操服に着替え終わったぼくはカーテンを開けた。
 お嬢の顔は、今までの余裕のある表情ではなく、とてもしんどそうな顔をしている。
「ありがとう。これ、使い過ぎちゃったかも」
 ぼくはお嬢にウエットティッシュを返す。
「いいえ。むしろたったこれだけで良かったのかしらと不安に思うぐらいですわ」
 と言って、お嬢はウエットティッシュを受け取らなかった。
 机周りがきっと汚れているはずだと言い切ったからだ。
「クラス委員長が帰った後、一緒に掃除しましょう。それまであたくしとエスケープしなさい」
 お嬢はサンドウィッチを食べ終わったぼくの手を引いて、保健室の窓から身を乗り出す。
 そのまま、ぼくらは学校の外へと出た。

 とは言ったって。
 お嬢は制服、ぼくは体操服。そりゃ、目立つ。
 街で一番栄えているアーケード街を歩いていると、すぐに学校に通報されたようで、先生がやってきた。
「お前まで感化されたのですか!」
 あの太った生徒指導の先生がお嬢の手を掴む。
「違いますわ! 逆にあの愚かなクラス委員長に感化されているのは、先生方の方でしょう!」
 お嬢はその手を振り払う。
「どういう意味だ?」
 ジャージ姿の男先生は、こちらを小馬鹿にした表情で質問する。
 ぼくはどうしようか悩んだ。
 ぼくが希望を持つためにはぼくの勇気が大事だと、あのお姉さんは言っていた。
 そうだ。真実を言うべきだ。
 ぼくに足りなかった勇気。
 それは真実を言うことだ。
「ぼくはクラス委員長をはじめ、クラス全員からイジメを受けています。今日の昼ご飯も無茶苦茶にされました」
 ぼくの言葉を聞いたお嬢はぼくの手を強く握った。ぼくも握り返す。
 一方の先生たちは、
「そんなことあるか! お前みたいな、授業中に校外に出るような人間が言い訳として、そんなウソをつくんだ!」
 もう、これ以上聞きたくもない罵倒をされる。
「先生方は人の心がないんですの? ひどすぎますわ!」
 お嬢は悲痛に反論するが、
「こいつに感化されたのか。可哀想にな」
 と、ジャージの先生はお嬢の手を引っ張った。

 そのときだった。

「か弱い女の子の手を引っ張るなんざ、体育教師がしていいことか?」
 長い黒髪をポニーテールにした瑠璃色の瞳を持つあのお姉さんが、ジャージ姿の先生の腕を掴んでいた。そのまま、お嬢から引き離し、背中から叩き落とした。背負い投げだ。
 痛そうな音がする。事実、痛いだろう。コンクリートに叩きつけられたのだ。ジャージの先生は悶絶している。
「あのさ、前にも言ったけど、勉強だけなら、学校なんていらねぇんだよ。教科書で十分だ。こいつらが悩んでいることを聞くのが教師ってもんじゃないのか? あん? 聞いてるか? 仕事を放棄しておいて、何様なんだよ」
 お姉さんはぼくとお嬢の前に立った。
「このチンピラ! そこの女の子はこの街一番の名家の子なのよ。不良の道に進ませるつもり? しかも教師に向かって、この暴力は! 警察に訴えるわよ!」
「あはっ。何を。あたしはこの女の子の繊細で純粋な『正義』に感化されているだけさ。鈍感なあたしは彼女から教えてもらっているんだ。だからこそ、強制的に『誰かを助けたい』という意志が壊されるのを見逃せなかった」
「そんなこと、あるはずない! この女め! 警察に突き出してやる!」
 フラフラになりながら、ジャージの先生は立ち上がる。
 お姉さんは先生たちに向かって、睨み付けると、
「お前たち、先公に……真実を教えてやるよ。彼が受けた……そして、この学校の真実をな!」
 こう叫んだ。
 そして、指を鳴らし、
「闇の力を以て、天誅を下す! 汝等の真の様をいざ暴かん!」
 お姉さんはにやりと邪悪な目をしながら、謎の呪文を唱え、先生たちに指さした。
「さあて、どうなるか楽しみだな」
 お姉さんがそう言い終わった瞬間、先生方の電話が鳴り始めた。
 電話に出た二人の先生は、会話が進むたびに顔面蒼白になっていく。
「すみません。今から事実確認を行います!」
 先生二人同時に叫ぶと、ぼくらを置いて、走り去ってしまった。
「嵐が止みましたね……」
 お嬢は疲れ果てたのか、へなへなと座り込む。
「いいや、今は嵐の前の静けさってやつさ。あんたら、やるじゃねえか。最高だぜ!」
 お姉さんはぼくの背中を思い切り叩いた。
「お嬢さんも立ちな。これからが本番だぜ」
 お嬢を立たせたお姉さんは腕を組むと、
「純粋に思ってくれる心はなによりの希望だ。お嬢さんの純粋な心であんたの絶望は希望に変わった。あの教師は信じるものを間違えた。だから、これから絶望が訪れる」
 キリッとした瑠璃色の目で遠くを見つめる。
「信じることは間違いじゃない。ただ、その信じる事柄を間違えちゃいけないだけさ」
 お姉さんはぼくらのほうを見る。
「さて、これから、あんたらは忙しくなるぞ。それでも、勉強、ガンバレよ。あたしも大学生活が忙しくなるから、もう二度と会うつもりはないぜ。会えないだろうしな。でも、大学生活は楽しいぞ。好きな勉強が好きなだけできるんだからな!」
 最高に優しく微笑んだお姉さんは、瞬きすると消えた。
「あれ……。今……。一体何が……」
 お嬢は再びへたり込んだ。

 それからの話をしよう。
 クラスメイトのぼくに対するイジメがすべて表沙汰になった。
 そのうえ、学校中で漫画や雑誌の万引きが横行していたらしく、それを無視し続けていた学校への対応にアーケード街の店が大騒ぎし、学校は保護者説明会と謝罪会見を何度も行った。
 そして、首謀者であるクラス委員長をはじめ、ぼくのクラスの大半がいなくなった。
 おそらく退学だろうという噂だ。
 受験前なのに、大惨事だ。
 みんなみんな、やっていることはやっていたのだ。
 あまりの悲惨さに、心が痛む。自業自得と言ったら、それまでかもしれないけど……。
 でも……。
 少し収まったが、冬になった今でもたくさんのクレームの電話が来るそうで、この嵐はしばらく続きそうだ。
 両親もぼくのイジメに気がつかなかったようで、ずっと平謝りだった。
 ぼくのご機嫌取りなのか、学校にもう行かなくていいよ、とは言ってくれるものの、この冬休みが明けたら、自由登校になるのだ。行く必要がそもそもない。
 何が問題だったか理解できない人間は信用に値しない。無視をする。
 ぼくが抱えていた問題に何もわかっちゃいない。
 もう、ぼくに指図せず、金さえ出してくれれば、それでいいさ。
 そして……。お嬢の話になるけど……。
 どうやらぼくは誤解していたようだ。彼女はとても優しい人だ。つっけんどんな態度も今ではとても可愛らしい。なんだかんだ一緒にいることが多くなった。
 お嬢は、とても教えるのが上手で、先生に質問するよりも勉強がはかどる。狙っていた大学より、一番行きたかった大学まで手が届きそうなレベルまで成績が上がった。
 お嬢もこの大学を目指しているそうで、一緒に合格しましょう、でないと、どうなるか分かっていますよね? という謎の圧力をかけられている。
 何故か、ぼくはこの圧力が大好きだ。ぼくのことを本当に思っててくれるのだな、と心がときめく。お嬢を信じて良かった。
 信じる人がいるだけ分かっただけでも幸せだ。
 これからも……そう、一生、彼女を信じることができると確信している。
 そういや、あの黒髪ポニーテールのお姉さんはこのことを教えてくれたのだろうか。
 考えれば考えるほど、不思議すぎるお姉さんだった。大学生だと話していたな。どこの大学か聞いておけばよかった。でも、二度と会えないとも言っていたな。それならば、きっと会えないのだろう。それはもうそれでいい。お礼ぐらいは言っておきたかったけど、無理なものはきっと無理だ。
 枕元に置いてある大きくてかわいいサメのぬいぐるみを見るたび、あの明るいチンピラなお姉さんを思い出す。
 そして、お嬢とのキャンパスライフを送りたいと、一層がんばれるようになった。
 ぼくは、お嬢と共に過ごす希望に溢れた未来を考える。お姉さんは希望を見せてくれた。この希望はちゃんと結果に出そう。
 そう思いながら、今日も自室の机に向かって、赤本を開いた。